『ミス』と『レディ』
その夜、こっそり起きていたカロラインは「レディ・キャロル・シエルバードの肖像」の前でレディを待っていた。実際のミュレルを見たレディが義妹を思い出して傷ついたのではないか、心配だったのだ。
『ちょっと、なんですのあの娘は! ミシェルより酷いわ!』
しかし、現れたレディは怒っていた。かぽぉっと血を吐きつつ怒鳴られてカロラインは引いた。
「そ、そうなのですか?」
『そうよ! たしかにミシェルのやり口は陰湿というか陰険というか自分のやった悪事をわたくしに擦り付けることに関しては長けていましたけれど、あんな……殿方に抱きつくなんてはしたないことはしなかったわ』
それはそれでミュレルより悪質な気がするが、レディの価値観からするとミュレルのほうがありえないらしい。レディは言葉にしなかったが既成事実を捏造するのは女性として傷物だと吹聴するに等しい。相手の男はともかく未婚の令嬢なら修道院に行かざるを得ない醜聞だった。
「申し訳ありません」
『どうしてあなたが謝るのよ。悪いと思ってもいないことを謝罪するのはおやめなさい。腹が立ちます』
「ミュレルの言動でレディが傷ついたのではないかと思ったのです」
『わたくし?』
レディは目を丸くして、またごぽっと血を吐いた。
『今さら……ミシェルであろうがわたくしが傷つくわけがないでしょう。厭な相手などポルターガイストで追い出してやりますわ』
ほほほ、と血を吐きつつ笑うレディにピンときた。
「もしや昼間の地震は……」
『あんまりにも下品な娘がいたものだから、つい、ね』
レディはますます愉快そうな笑い声をあげた。絶好調だ。
恐ろしいはずなのにチャーミングで、友情すら抱きはじめている。そんな自分がおかしく、カロラインも笑った。
なんとかレディの『悪女』という評判を覆せないだろうか。翌日からカロラインは図書室でレディ関連の書籍を読み漁り、ダレンと一緒に周辺の調査をはじめた。
幽霊話には半信半疑のダレンだが、レディの義妹ミシェルがレディに罪を押し付けたこと、ミュレルにもその兆候が見られることを話すと顔色を変えた。
「たしかに……ミス・ドーンは「お義姉様ばかりずるい」とよく言っているな。まるで自分が被害者のように振る舞っている。その権利がないのに何を言っているのかと思っていたが……そういうことなのか?」
ダレンが嘆息する。カロラインとミュレルの事情を知らない者がミュレルの言葉だけを聞けば、義妹を虐げる義姉の出来上がりだ。たとえ事情を知っていたとしても、そこまで言われるからにはカロラインにも何かあるのだろうと勘ぐってしまうだろう。まして男であれば、嘆く少女に向かって「いやそれ自分のせいだろ」とは言えない。
「ホテルに滞在しているマダムたちはミュレルに呆れていたから騙されることはないと思うの。お会いしたことはないけど、皆様社交界ではトップクラスとお見受けするわ」
「そうだな。立ち居振る舞いからすると貴族か、上流階級で間違いなさそうだ」
ドーン家の娘であるカロラインと新米事業家にすぎないダレンが出席する社交界は、もっぱら商業関係だ。もちろん中には貴族もいるが、そこには明確なラインがある。とてもわかりやすくいえばそれはお育ちの違いだ。
かつての貴族は働かなくとも領地からの税収で生活できていた。汗水たらして労働するのは平民の役目だったのだ。しかし今はそうではない。土地は貴族ではなく国家のものとなり、やがて国民のものになった。貴族が所有していた城を外国人が買うのはザラだ。税金が払えずに狭いアパート暮らしの貴族だっている。それでも彼らは矜持を捨てられない。かつての栄光を忘れず、貴族の血を引くことを自慢し、子供にも言い聞かせる。あなたは貴族だったのよ。
もちろん上手いこと生き残った貴族もいる。元から事業に取り組んでいたり、領地を繁栄させ領民に支持されていた貴族だ。そうした正真正銘貴族が出席する社交界は当然ながら敷居が高く、たかが個人事業主のダレンや三代続いた程度のドーン家では招待状すら来なかった。
マダム・マーテルたちはおそらくそちらに属する者だろう。旅先の解放感とあの年頃のご婦人特有の若い子へのお節介で声をかけてくれたのだ。
「ローラのことを『レディ』ではなく『ミス』と呼んでいたし、あれは無意識だろう」
「そんな人たちにミュレルが失礼なことをしなきゃいいけど」
レディは淑女という意味だが、マナーや教養、身分を考慮して使い分けされる。カロラインは独身なのでミスでも間違いではないが、これでも社交界ではレディと呼ばれるのだ。カロラインをレディと呼ばないのは、マーテルたちにはカロラインは淑女としてちょっと足りないと考えているからなのだろう。ミュレルなど「お嬢さん」扱い、子供扱いされていた。
ミュレルを子供とみなすことで多少の無礼は目を瞑ってくれるのだろうが……それにしても限度がある。迂闊に喧嘩を売って、ミュレルだけではなくドーン家にまで影響がでなければいいが。カロラインは頭が痛かった。
「ミス・ドーン、こちらにいらしたの。あら、ミスター・アンガスもご一緒ね。ちょうどいいわ」
噂をすれば。マーテルがにこやかに図書室にやってきた。
「マダム・マーテル」
立ち上がるカロラインの顔色は悪い。まさか本当にミュレルがやらかしたのだろうか。
「もしや、ミュレルが何か……?」
マーテルは困ったように苦笑した。
「いいえ。これをお渡しするのと、ちょっとしたお願いがあるの」
すぐに切り替えたマーテルがかたわらの侍女に合図をすると、侍女がカロラインに封筒を渡してきた。
「以前、レディの時代のドレスを仕立てようという話をしたのを覚えていて?」
「はい」
「リンジー夫人に聞いたのだけれど、そういう人はけっこういるらしくてね、町に貸衣装屋があるそうなの。それで、みんなでその時代の正装をして晩餐会を開くことにしたのよ」
封筒の中身は晩餐会への招待状だった。
「それでね、お願いというのはぜひミス・ドーンにレディと同じドレスを着て出席していただきたいの」
「えっ?」
この時カロラインの頭に浮かんだのは吐血するレディと血まみれのドレスだった。
「ほら、肖像画のドレスよ。やっぱり着てみたいと思う人はいるのねえ、同じデザインのドレスがあるんですって!」
「マダムのほうが着こなせそうですが……」
「まあ、ありがとう。でもわたくし、この黒髪でしょう? ミス・ドーンは淡い金髪に蒼い瞳だし、レディ役にぴったりよ」
楽しげにはしゃぐマーテルは否とは言わせない勢いだ。
容姿が似ているだけではなく、十中八九ミュレルがいることが理由だろう。レディ・キャロル・シエルバードとは――『悪女』とは立場が逆だが、だからこそどんな姉妹の愛憎劇が見られるのかと期待しているのだ。
断ろう。カロラインが口を開きかけた時、マーテルが低い声で言った。
「ミス・ドーン、あなたは少しレディを見習うべきだわ」
ことあるごとに吐血するレディを見習えと言われたカロラインは難易度の高さに頭を抱えたくなった。
「立ち居振る舞いはわたくしたちが教えてあげます。はっきり言うわ。義妹のことであなたが謝罪するのは不要よ」
「え……」
「すでに社交界に出ている十八歳の娘はもう子供ではありません。あなたはドーン家に傷が付くと考えているのでしょうけれど、傷つくのは本人だけよ。先に社交界に出た姉がしっかりしているならなおさらね。あなたが謝れば謝るほど、ドーン家は教育に失敗した娘を外に出したと言われるわ」
「でも、あの子が迷惑をかけた相手に何もしないわけにはいきません」
マーテルの言うことは正論だ。だがあのミュレルを良しとしている父と継母では、謝罪どころかミュレルのフォローもしないだろう。
懸命なカロラインに、マーテルは深いため息を吐きだした。
「ミス・ドーン。社交界にいる人が全員義妹と同じ馬鹿だと思っているの?」
「そんなことはありませんっ」
ミュレルを馬鹿と言いきられたことに気づかずカロラインは否定した。
「ならば、やはり義妹の尻拭いはあなたの役目ではありません。他者を貶めて自分を上げようとする小娘の相手をするのは、せいぜい下心のある男だけよ。あなたの価値が下がるだけだわ」
「……」
「義妹を庇っているうちは永遠に、レディにはなれないわよ」
カロラインはハッとした。『ミス』と『レディ』の違い、その差。
ミュレルに貶められ、怪我までさせられてもフォローするのはカロラインの美徳だ。どんなにひどいことをされてもやさしさと誇りを捨てなかった。
しかしカロラインの気づかいは同時にミュレルの自立を阻んでもいる。何をやってもカロラインは結局許し、庇ってくれると。ミュレルは責任の取り方を知らないまま大人になってしまったのだ。
「なにも『悪女』になれと言っているわけではないの。苦手な相手、嫌いな相手を上手に遠ざけて、それこそ相手にしないのもレディのたしなみの一つよ」
そう言ってマーテルは微笑んだ。どこか迫力のある笑みにドキリとする。
「マダム・マーテル……」
マーテルはカロラインを心配してくれたのだ。あと一歩『レディ』に及ばないカロラインがもどかしかったのだろう。
「いきなり突き放すのは無理でしょうから、まずは練習しましょう。形から入るのも一つの手よ」
扇の代わりに指先を頬にあてて小首をかしげる。そうした仕草、年齢を感じさせない、悪戯っ子のようなしぐさがこのゴージャス系マダムによく似合っていた。
これこそ本物の『レディ』なんだわ。カロラインは内心驚きつつもすとんと納得した。『レディ』とは、単にマナーと教養のある、社交界に出ただけでは得られない、上手に年輪を重ねた女性を讃える言葉だった。