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待ち人とお邪魔虫


 長い悪夢にうなされていたような心地だが、眠気と怠さは現実だ。カロラインは大きな欠伸をしながら『レディ・シエルバードの肖像』を見上げた。


 大きな絵画である。回廊にはシエルバード家が所有していた代々の一族の肖像が飾られているが、その中でもダントツに大きい。十八世紀の貴族の館の壁、回廊の突き当たりを占拠していた。


 この絵は作者不明だ。一説にはレーツェル公が自ら描いたといわれているが、彼に絵心があったという話がないためレディを描いたことを悔いた画家がサインを削ってしまったのだろうというのが有力だった。


「レディ、わたしを叱咤してくれたの?」


 カロラインも義妹にいびられて遠い地に逃げている。ダレンは電報をくれたが未だに来てくれなかった。


 階を挟んだ向かいにはレーツェル公の肖像画がある。レディに比べるとずいぶんちいさく、そして向かいといっていいものかどうかためらわれるほどの距離があった。


 一階にあるレーツェル公の前に立ってカロラインはレディを見上げてみた。階段と手すりと物理的距離に阻まれてレディはかろうじて額縁とドレスの裾が見える程度である。


「この位置を指定したのはレーツェル公。レディを動かすのは重くて大変だろうけど、自分の肖像も動かすなと遺されている……どうしてかしらね」

「謎よね!」


 いきなり隣から声が返ってきてカロラインは飛び上がった。

 まさかまたレディが、と思ったが、そこにいたのはマーテルだった。


「マ、マダム・マーテル……っ。驚かさないでください」

「あらごめんなさい」


 マーテルは胸を押さえたカロラインにまったく悪びれずに謝った。


「熱心にレディとレーツェル公を確認しているし、謎解きしているなら混ぜてもらえないかしら」

「謎解きなんて。レーツェル公はなぜレディのいる回廊ではなく、一階のこんな端にいるのか不思議に思っただけです」

「館の謎のひとつね」


 マーテルが指を一本ピッと立てた。


「妻のミシェルの肖像はないのに、レディはあんなに大きく飾ってあるわ。なぜ、ミシェルはいないのか。レーツェル公はご自分の城をお持ちだったのに、なぜ住まいをこちらに移したのか。そして、レディとレーツェル公のお墓はどこにあるのか」


 一本、二本と指を立てながらマーテルが喜々として語る。


「お詳しいですね……」

「図書室にレディ関連の本がたくさんあったの。歴史に隠されたミステリーね。ああ、レディが現れて語ってくださらないかしら」

「はは……」


 昨夜詳しい話を聞いてしまったカロラインは苦笑するしかなかった。とはいえそれらの謎について語ったわけではない。レディに会ったと言ってもカロラインは答えられなかった。


「あ、そうそう。ミステリーの話をしに来たのではないのよ。お連れの方がもうすぐ到着なさるそうよ」

「っ、本当ですか?」

「ええ。さっき自動車が迎えに行ったわ」


 ホテル「レディ・シエルバード」は郊外にあり駅からも遠いため、自動車での送迎サービスを扱っている。荷物の多い長期滞在客にはありがたいサービスだ。

 ホテル側も観光資源が乏しい自覚があるのだろう。自動車だけではなく自転車が複数、レディの時代を味わいたい客向けにクラシカルな馬車も用意されている。ちなみにそれらはオプションだ。


 ぱっ、と顔を輝かせたカロラインに、マーテルはピンときたようだ。


「待ち人来たれり、ね。おほほ」


 そんなにわかりやすかったかしら。カロラインは真っ赤になった。


 さて、ホテル「レディ・シエルバード」はホテルであるからして当然従業員がいる。リンジー夫妻はあくまで管理人であり、執事のようなものだった。


 自動車が到着すると、ドアマンが恭しい物腰で出迎えた。ドアマンの後ろには数人の少年従業員(ボーイ)が控えている。彼らは近隣から働きに来ている労働者だ。女たちは掃除、洗濯、接客のメイドと、ホテルはこのあたりで人気の職場なのだった。


 カロラインも出迎えに行きたかったが、彼らの仕事の邪魔をしてはいけないとロビーで待つことにした。そわそわするカロラインにマーテルたちは微笑ましそうな顔をする。後は若い者だけで、という定番の流れにはならないらしい。有閑マダムは強かった。


「ローラ」


 ダレン・アンガス――待ちに待った恋人を見つけたカロラインが腰を浮かせる。ダレンがカロラインを愛称で呼んだ。


 笑顔で両手を広げて彼の胸に飛び込もうとしていたカロラインの足が止まった。


 遅れてやってきた、義妹のミュレルがダレンの腕に抱きついたのだ。


「ダレン様! もう、待ってって言いましたのに!」

「勝手についてきたのはそちらだろう、ミス・ドーン」

「えー知らなーい。……あら、お義姉(ねえ)様」


 ダレンが女性に向けるにはいささかどうかという顔で腕を離そうとするが、ミュレルはめげない。カロラインに気が付くとわざとらしいほどの笑顔を作ってダレンの腕に手を乗せた。エスコートの催促だ。


「ふうん。お義姉様がダレン様をこんな田舎まで呼びつけたのね? お可哀想なダレン様! ここに着くまでの汽車ではずっと眠ってらしたのよ。お疲れなんだわ」

「くだらない話を延々聞かされるより寝ていたほうがましだからな」

「そうですわよねえ。ふふっ。わたくしの前では安心できるってことですよね!」


 ついにダレンは額を押さえてため息を吐きだした。ミュレルの話の通じなさは今にはじまったことではないが、なぜこうもポジティブになれるのだろう。


 カロラインは何を見せられているのだろうと思った。通じていないのに息が合いすぎていて、気味の悪いコメディのようだ。


「ダレン……」


 ようやく声を発したカロラインに、ダレンは心底申し訳なさそうに言った。


「すまない。出かけに捕まって……なんとか撒こうとしたんだが」


 それで到着が遅れたのだ。ぐったりと疲れた様子のダレンにカロラインは首を振った。


「いいのよ……。しかたないわ」


 ミュレルが義妹になって以来すっかり口癖になった言葉でダレンを慰める。ダレンはますます申し訳なさそうな顔をした。

 しかたがない。ミュレルは来てしまったのだ。


「お客様、お部屋にご案内いたします」


 どうやらお邪魔虫らしいと察したリンジー夫人がにこやかにミュレルを誘導した。荷物持ちのボーイが三人、両手にミュレルのトランクを持って待っている。たいそうな荷物だが中身は着替えだろうとカロラインは見当をつけた。


「ダレンも荷物を置いてきたら? 後でゆっくり会いましょう」


 ダレンにはリンジー氏が案内についている。ミュレルの言動に眉を顰めていたマーテルたちに軽く頭を下げ、ダレンは素早くカロラインの指先にキスをした。


 二人がロビーからいなくなると、どこかホッとした空気が流れた。


「なんというか……聞きしに勝るわね」


 マーテルの感想を皮切りに苦笑が漏れる。


「十八歳にしては幼いお嬢さんね」

「それに、あの亜麻色の髪に緑色の瞳。どちらも珍しい色ではありませんけれど、揃っている方を見るのははじめてですわ」

「あのお嬢さんならレディも会いに出るのではないかしら」

「お気づきになりまして? あのお嬢さんのドレス、いささかサイズが合っていないようでしたわね」


 思わせぶりな視線を向けられたカロラインは苦笑を浮かべてうなずくしかなかった。サイズが合わなくて当然だ。あれはカロラインが仕立てた外出着で、ミュレルに奪われたものの一つである。


「既製品なのでしょう。それよりあのブローチのほうがありえないわ」


 確信していても証拠もなしに疑うのは淑女のすることではない。連れ子とはいえドーン家の娘が既製品、とさりげなくこきおろして、別のマナー違反を指摘した。


「ええ、あのギラギラしたダイヤモンドのブローチには驚きましたわ」


 午前には午前にふさわしい装いというものがある。ダイヤモンドを午前中に身に着けるのは非常識だった。言われるまでもなくカロラインも気づいたし、恥ずかしかった。


 そもそもカロラインと一緒にいたマーテルたちに挨拶ひとつせず、なおかつ義姉(あね)を貶める発言をしたのが信じられない。


 カロラインが何も言わなかったのを反論できないと思ったようだったが、それは違う。ミュレルを相手にして同類だと思われるのが嫌だっただけだ。


「申し訳ありません。ミュレルが失礼を……」

「あら。ミス・ドーンが謝ることではなくってよ?」

「そうよ。彼女は社交界にも出ている一人前のレディなのでしょう?」

「ミュレル嬢……とおっしゃったかしら。めったにお目にかかることもないでしょうし」

「あら、意外と人気があるのかもしれなくてよ。レディと気が合いそうじゃなくって?」

「ミス・ミュレル・ドーン対レディ・キャロル・シエルバードの悪女対決ね。ぜひ拝見したいわ」


 好き勝手言ってるマーテルたちにカロラインはハラハラした。レディは昼間の会話を聞いているのだ。驚ろかすだけではなく祟ったりしたらどうしよう。


「レ、レディとあの子を比べるなんて、それこそ失礼ですわ」


 なんとかそれだけを言った。実はレディは悪女ではなく被害者だと説明したいが、本人(の幽霊)から聞きました、では説得力がなさすぎる。

 しかしカロラインの言葉は納得を持って受け入れられた。


「ローラ、すまない……」

「ダレン、お疲れ様。それよりお友達を紹介させて?」


 ロビーに降りてきた、心なしかぐったりしたダレンをいたわり、カロラインがマダム・マーテルたちを紹介していると、やってきたミュレルが開口一番文句をつけてきた。


「ダレン様っ。どうしてわたくしと同室じゃないんですかぁ?」


 これにはマーテルたちもぎょっとなった。未婚の娘が異性と同室なんてありえない。ましてミュレルはダレンの連れではないのだ。


「当然だろう。たまたま行き先が同じだっただけのミス・ドーンとなぜ同じ部屋に泊まらなくてはならないんだ」


 思いっきり説明口調でダレンが答えた。ミュレルに、というよりはカロラインへの言い訳だ。


 つまりはそうミュレルに言われてしまい、同行させざるを得なくなったのだろう。そういう知恵だけはよく回る。カロラインはダレンの苦労を思い、そっと寄り添った。精一杯の牽制にミュレルの顔が醜く歪む。


「ミュレル、お父様にはちゃんと言って来たの? 今頃心配してるんじゃない?」

「大丈夫よ。ダレン様のところに行くって言ってきたもの!」

「旅行するって言ったわけではないのね? しかも日をまたいで帰らないなんて……醜聞になるわよ」

「あーら、その時はダレン様に責任をとっていただくわ」


 それが狙いだったのか、ミュレルはふふん、と勝ち誇った。今度はカロラインの顔が引き攣った。


 いくらダレンがそんな事実はないと言っても、ミュレルと一緒に来た事実がある以上信用はされまい。ホテルという現場で、複数の目撃者までいるのだ。


 これにはマーテルたちも唖然となった。わざわざ醜聞を作り上げて外堀を埋めようとするなど淑女としてありえないはしたなさである。宇宙人を見る目でミュレルを見ていた。


 ガタッ、とテーブルが鳴った。次の瞬間ロビーが激しい揺れに襲われる。


「きゃあっ」

「ローラ!」


 ダレンがカロラインの頭をかばうように抱きしめてしゃがみ、マーテルたちも近くのものにしがみつく。ガタガタとテーブルや椅子が音を立てる。

 揺れがおさまると、ミュレルだけが立ち尽くしていた。


「じ、地震……?」

「そのようだな」


 ほっとしたカロラインがダレンの胸の中で恐る恐る顔を出し、あたりを見回す。それを、ミュレルが真っ青になって見ていた。


 とっさの判断。カロラインとミュレルの二人が同時にいて危機に陥った時、ダレンが守ったのはカロラインだった。


 これ以上ないほどわかりやすく見せつけられたミュレルは屈辱に顔を歪ませて、鼻息荒くロビーから逃げ出すしかなかった。

 それを見送って、ようやくダレンがひと息ついた。


「すまない。私が甘かった」


 何度目かの謝罪をため息と共に吐き出したダレンは、乱れた髪もそのままにソファに体を預けた。


 カロラインは首を振った。


「わたしこそ、今まであの子のことをしかたがないと諦めて強く諌めてこなかったわ。ダレンにまで迷惑をかけて……本当にごめんなさい」


 血が繋がっていなくともあのような身内がいるとなれば結婚は破談になる案件だ。カロラインは慣れた。ミュレルについてのあれこれで、自分が折れて諦めたほうが早いと思うのに慣れてしまった。慣れ過ぎてマヒしていたのだろう、ダレンやマーテルの前でも家と同じふるまいをするミュレルが、ここ数日はなれていたおかげか改めて滑稽で、恐ろしく感じた。


「ミュレルがここまでするとは思わなかったわ」

「私もだ。……こう言うのはなんだがここは何もない、辺鄙な田舎町だ。こんなところにまでついてこないだろうと考えたんだが……」


 ここで生活している人々には大変失礼だし申し訳ないが、長閑で牧歌的な田舎町は人生に疲れた者が退屈を楽しむために訪れるものだ。館をホテルにした現レーツェル家当主もそう考えたのだろう。レディの幽霊は昔から噂されていたから取り壊すのはためらわれた。幽霊を逆手に取ったのだ。


 たしかに、どのコンセプトもミュレルは欠片も興味を抱きそうにない。


 かといってさっさとディンドンに帰るかといえば、それもないだろう。なにしろここにはミュレルの大嫌いな、憎んですらいるカロラインと、カロラインから奪ってやるつもりのダレンがいるのだ。意地でも居座る。


 カロラインがそれを指摘するとダレンはさらに理由を重ねてきた。


「私か、せめてカロラインと一緒でないと彼女はホテル代を支払えない」


 カロラインは目を丸くし、口をぱかりを開けた。


「同室にこだわったのもローラへの嫌がらせというよりも金銭的なことじゃないかな。汽車代も送迎代も当然のように私に支払わせたし」

「本当に申し訳ありません……」


 今度こそカロラインは羞恥に消え入りたい気分に陥った。


 ダレンが大人しくそれらを支払ったのは、妙齢の女性にまとわりつかれて金も出さないのは紳士のすることではないからだ。ディンドンは彼らのホームタウンで、ダレンの店もそこにある。万が一顧客にそんな場面を見られたら、アンガス商会はやばいと噂になるかもしれない。何よりミュレルが何を言いふらすかわかったものではなかった。つまりは保身である。


 カロラインは母の遺産の他に、ドーン家の資産運用で得た個人資産を持っている。もちろんある程度の現金は持ち歩いているが高額支払いは小切手がもっぱらだった。ダレンもそうだろう。ホテルの宿泊料金も小切手の予定である。


 しかしミュレルは違う。彼女はドーン家に養われている身だ。小遣いをもらってもそれを投資に回したり運用するなど考えもしない。全部使ってしまうからだ。ドーン家はミュレルが散財したところでさほどでもないのに、それでもカロラインから奪おうと企んでいる。


 カロラインはハッとした。


「あの、もしやミュレルが着けていたブローチは」

「……買ってくれたら大人しく帰ると言うのでね」


 これにはダレンも不愉快を隠そうとしなかった。


 帰ると言うから買ったのに、宝飾店で別れたはずのミュレルはダレンが向かった駅で待っていた。帰るふりをして待ち伏せしていたのだろう。ミュレルのほうが一枚上手だったのだ。あくまでも偶然を装われたダレンはまちがいなく被害者だった。


「その時にはすでにトランクを持っていたよ。ローラが出かけていて帰っていないから、どこかで落ち合うと予想したらしい」

「……」


 なぜその機転と行動力を自分のために使わないのか。いや、ある意味ミュレルは自分のために使っているのだろう。だがその原動力になっているのはカロラインへの憎しみだ。


 生まれの違いによる経済力の差はカロラインにはどうしようもないことである。カロラインだって、ミュレルを羨み、恨んだことだってあるのだ。勉強すらせずに遊びほうけても叱らない母、黙認する父。カロラインは亡き実母を愛しているし、感謝している。だが母の生前父はやり手の母の影に隠れていたものだった。父のプライドをもう少し思いやってくれても良かったのでは、と今になってカロラインは思っている。母の面影を消すように父は仕事仕事の仕事人間になり、再婚しても仲の良い両親との一家団欒は遠い憧れのままだ。


 カロラインがやろうと思ってもできない勝手気ままな生活をミュレルは送っている。おまけに「お姉様はずるい」ときた。どちらがずるいのだ、とカロラインは唇を噛む。


「……義理の家族とは難しいものですね」

「そうだな。だが夫婦だって元は他人だ」

「少なくともはじまりには愛があるわ」

「うん」


 ダレンは眉根を下げた。せつなそうな瞳にカロラインは苦い笑みを浮かべる。


 カロラインはダレンに恋しているが、結婚には消極的だった。自分が良き妻、良き母になれるか不安だったし――ミュレルに壊されるのが怖かった。


「ダレン」

「うん?」

「わたしのことが好き?」


 ダレンは思いがけないことを聞いた、というように目を見開き、それからふっと微笑んだ。


「愛しているよ」


 胸がいっぱいになったカロラインが蒼い瞳を潤ませる。


 そんな二人を、ミュレルが憎悪を滾らせて見つめていた。




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