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待ち人来たらず

2/9父親に関する部分を修正しました。



「ごきげんよう、ミス・ドーン」

「おはようございます、マダム・マーテル」


 翌朝、さっそく散歩に出ようとしたカロラインはレディ・シエルバードの前でマダム・マーテルに捕まった。


「あなたもうレディにはお会いした? わたくし三日目なのに、まだなのよ」


 黒髪黒瞳の、いかにも有閑マダムといった風情のマーテルは残念そうに笑った。会ったら会ったですごいんだろうな、と思いつつカロラインは首を振る。


「いいえ。まだです。あの……マダムはレディにお会いしたいのですか?」

「ええ、ぜひ。歴史に残る悪女ですもの、憧れるわ」


 なんとなく流れで一緒に回廊を歩く。レディの肖像があるのは一階と二階の間の回廊だ。絵画が傷まないようにするためだろう、窓はなく、薄暗い。年代物が置かれているせいかどこか辛気臭かった。


 やがて劇場かと見紛うほどの大階段にさしかかったところでマーテルが歓声をあげた。


「そうそう! この階段だそうよ!」

「えっ?」

「レディの義妹が転落死したの。どうして手すりに摑まらなかったのかしら? と思ったけれど、これだけ広い階段じゃあ無理もないわね」

「貴族のご令嬢は手すりを使わないのでしょうか?」

「端は使用人でしょうね。主人は堂々としていなくっちゃ。あの時代のドレスなら裾を踏んづけてもおかしくないわね。わたくしもドレスを着てみようかしら?」


 十八世紀の貴族令嬢のドレスは頑として足を見せない長さだ。マーテルなら着こなせそうだが階段落ちを試すのは危険すぎる。


「や、やめてください。危ないですっ」

「まあ。おほほ」


 慌てて止めるカロラインに、マーテルがおかしそうに笑った。


「あなたはやさしいのね、ミス・ドーン。こんなお嬢さんとご一緒できて嬉しいわ」


 からかわれたカロラインは赤くなった。


「ここは良いところだけど退屈なのが難点ね。今度一緒にお茶をしましょう」

「ありがとうございます。ぜひ」


 侍女がマーテルを呼びに来た。カロラインは「マダム」を付けて呼んでいるが、彼女が何者なのか知らない。まだ三日目と言うが他の宿泊客とすでに友人関係を築いていた。


 旅先では余計な詮索をしないのがマナーだ。どうやらマーテルはカロラインを知っているようだったが、それはカロラインがドーン家の娘だからだろう。ドーン家はちょっと名の知れた実業家だ。つまりそれだけ財力がある。

 ご結婚は? と聞かれてもうかつに答えないようにしよう。顧客になる可能性もあるから失礼のないよう笑ってやりすごせば良いだろう。カロラインはそっと息を吐いた。


 ドーン家は当主の父で三代目だ。ただし父の経営手腕はいまいちで、今は亡き母が経営権を握っていた。再婚後の父は継母と義妹を放置しついでにカロラインにも無関心で、ひたすら仕事に励んでいる。当主といってもカロラインの祖父である先代の長男だから跡を継いだだけで、才女と名高かった母と婚約してようやく、というありさまだった。母がいなくてもきちんとやれるところを見せなくてはあっという間に経営権を奪われてしまう。放置に無関心といえば無責任にも聞こえるが父なりに必死なのはわかっていた。


 カロラインは大学で経済を学んだ。ダレンと出会ったのも大学だ。口約束だが婚約もしている。父は独り立ちしているカロラインより、危なっかしいミュレルに婿を取って継がせたほうが良いと考えているらしく、カロラインは父から結婚の話を聞いたことがなかった。


 問題は、ミュレルだ。


 なにかとカロラインを目の敵にしてくる義妹は、カロラインが婚約したと知ればなんとしても邪魔してくる。友人として紹介したダレンに色目を使ってくるのだから確実だ。


「……」


 ダレンは現在二十五歳。大学在学中に投資をはじめ、今は貿易商をしている。カロラインを高級ホテルに滞在させるくらいの財力はあった。でもそれだって相当頑張ってくれたのだろうことは想像がついた。


 カロラインには母と祖母から譲られた遺産がある。このままダレンと海を渡って駆け落ちしたって平気だ。


 だが、もしもダレンがカロラインの金目当てで、カロラインの財産を奪ってからミュレルと結婚するつもりなら――……。


 悪くなるばかりの想像を、首を振ってかき消した。


「やめやめ。せっかくいいお天気でお花も綺麗なのに、暗いことばっかり考えてちゃダメよ」


 草原に出ると敷地の広大さが良く分かった。都会っ子のカロラインは見渡す限り遮るもののない草原などはじめてである。少し可哀想と罪悪感を抱きつつ、草を踏みしめて歩いた。潰されたハーブから溢れた香りが立ち昇り、気分を上昇させてくれる。


 時々振り返ってホテルが見えるのを確認し、ただ気の向くまま進んでいたカロラインだったが、本当に何もないのにやがて飽きてきた。


「マダムが言ってた通り退屈ね……。せめて遺跡でもあればいいのに」


 ホテルから持ってきたパンフレットによると、一番近くにある見どころは牧場だ。遠くに見える森には泉が湧いているらしいが、そこまで歩いていく気にはなれない。行くだけならまだしも帰りを考えるとうんざりだった。


 ホテルに戻ったカロラインに電報が届いていた。


「おかえりなさいませ。ドーン様に電報が届いております」


 ホテルの外観は中世のままだが中身は現代的で快適だ。シャワーもあるしトイレも綺麗、電話もあった。


 管理人の妻、リンジー夫人から渡された電報はダレンからだった。


 ――もうしばらくかかる。


 急いで確認したカロラインは力が抜けてしまった。ダレンは明日到着予定だったはずだが何かトラブルでも起きたのだろうか。


 がっかりと同時にまたあの暗い想像が蘇ってくる。ふらふらと部屋に戻ろうとしたカロラインをリンジー夫人が心配そうに支えた。


「顔色が悪いですわ、ドーン様。少し休んで……昼食はお召し上がりになりますか?」

「いいえ、食欲がないの」


 散歩したせいで空腹だが、胸に冷たく重いしこりのようなものがあってとても口に入りそうにない。


「せめてスープだけでも……。ホテル自慢の料理人が作ったんですよ、ね?」


 リンジー夫人がここまで言うなんて、よほどひどい顔をしているに違いない。管理人とはいえカロラインは客の一人にすぎない、こうしたお節介を焼くなんて普通はありえないことだった。


「じゃあ、スープだけ……」


 あたたかいものなら飲めるかもしれない。弱々しくうなずいたカロラインに、リンジー夫人は嬉しそうな顔をした。付き添われて食堂に行くとマーテルと友人の婦人方がおしゃべりに興じていた。

 今までずっとしゃべっていたのか。すごい、と場違いに感心してしまう。


「まあ、ミス・ドーン。どうなさったの?」

「顔色が悪いわ。散歩に出て陽気に当たったのではなくて?」

「帽子をかぶらなかったの? 若いからって油断してはいけないわ」

「こっちにいらっしゃい。手を擦ってあげましょう」


 マーテルがリンジー夫人からカロラインを受け取って、テーブル席ではなく隅のソファに着席を促した。すかさず淹れられた紅茶を飲むと、あたたかさが体に戻ってくる。


 人心地ついてほっと息を吐きだすと、そこでようやく心配そうにマダムたちに見守られていることに気が付いた。


「あの、ありがとうございます」

「いいのよ。若い子の体は繊細だものね」


 苦笑気味のマーテルにいたわられて、誤解されていると思ったカロラインだったが、すぐに彼女たちがそういうことにしてくれるのだとわかった。余計な詮索はせず、ただお節介を焼いてくれる婦人たちに感謝の気持ちが湧いてくる。


「いえ、あの……」


 カロラインは口籠った。年配の女性に相談してみたい気持ちと、見ず知らずの他人に自分の悩みを打ち明けることへの葛藤がせめぎ合う。


「ああ、ほら、スープが来たわ」

「ここの料理はどれも美味しかったわ」

「そうね。素朴な味よね」


 顔色が悪く、震えていたカロラインへの気づかいだろう、スープはスープ皿ではなくカップに入っていた。マーテルが受け取って、そっとカロラインの手に持たせそのまま口元に運ぶ。


「飲めるかしら?」


 まったく似ていない黒い瞳に母を思い出し、カロラインは涙が出そうになった。亡き母もカロラインが病気や落ち込んで泣いている時、こうして寄り添ってくれたものだ。


「はい。ありがとうございます」


 自分で飲んだカロラインの背を、マーテルのやさしい手が撫でてくれる。


「ミス・ドーン。わたくしたち、あれこれ詮索するつもりはないのよ」

「そうよ。おばさんのおしゃべりなんて夫と子供の愚痴よ」

「旅の恥ですもの、気兼ねしないですむわ」

「姑の悪口と、持病の話もね」


 スープをすすりながらカロラインはくすっと笑った。年の功というべきか、カロラインが話しやすい雰囲気を作ってくれているのだ。


 霞む視界を目を擦って戻し、カロラインは「実は」と切り出した。




「マダム」ですが女主人の意味で使っています。「レディ」は主に淑女、令嬢、既婚女性にも使われていたようです。マーテルは既婚か未婚かわからないし年齢的にレディは失礼かな、ということでカロラインはマダムと呼んでいます。

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