ホテル『レディ・シエルバード』
時代的には二十世紀前半、民主化が進んで貴族が減り、自動車やカメラが出回り始めた頃を想像してください。
淡い金の髪をゆるやかに結い上げ、当時流行していた羽の髪飾りを着けている。
けぶるような長い睫毛の下には蒼い瞳が、どこか愁いを帯びてこちらを見つめていた。口元にはそっけないほどの笑みを浮かべ、長い羽扇を手に振り返る。まるで今まさに名前を呼ばれたかのようだ。
十八世紀に描かれた「レディ・シエルバードの肖像」を見上げたカロライン・ドーンはうっとりとため息を吐いた。
「なんて綺麗な女性……」
カロラインの感嘆に、案内していた初老の管理人、リンジーがにこにこと同意した。
「ええ、そうでしょう。「あの」キャロル・シエルバードといえばさぞかし派手好きで高慢ちきな女だろうとみなさん想像するんですけどね、この肖像にある通り、レディは正真正銘の淑女なのですよ」
彼に言われた通りの顔立ちを想像していたカロラインは、自分だけではないと知ってほっとした。赤くなった顔をごまかすように肖像画に目を戻す。
レディ・シエルバード――レディ・キャロル・シエルバード伯爵令嬢は、歴史の教科書に出てくるような偉人ではない。だが、この国では知らぬ者のない女性である。
歴史を描いた小説で、あるいは演劇で。あるいはたとえとして、そして口伝で、長く語り継がれてきた。
そう、稀代の悪女として。
十七世紀。今では名ばかりとなった貴族が権力を持っていた階級社会。キャロル・シエルバードは社交界の花として君臨していた。多くの男たちと恋を楽しみ、男たちに様々な物を貢がせて贅の限りを尽くしたらしい。
しかしそんなキャロルもやがて斜陽を迎える。シエルバード伯爵の再婚でできた義妹のミシェル・シエルバードがキャロルの婚約者であったディーン・レーツェル公と共にキャロルの悪事を暴いたのだ。
男爵家の未亡人であった継母の連れ子を、キャロルはさんざんに虐めていた。屋敷に監禁して外には一切出さず、牛馬のごとく鞭打って扱き使っていたという。血の繋がりはないとはいえれっきとした令嬢にあんまりな仕打ちだ。
他にも誑かした貴族を唆しての公金横領だの、既婚男性と関係を持っただの、少年従者を侍らせて逆ハーレムパーティをしただのとやりたい放題。脚色されたものもあるだろうが「レディ・シエルバードならやりかねない」と思われたことからも、彼女が悪女に恥じない女であったのかが窺えた。
「この『レディ・シエルバードの肖像』は彼女のかつての婚約者、レーツェル公が描かせたものと言われています」
「レーツェル公は、レディの義妹と結婚していますよね? なぜ彼が?」
「わかりません。婚約中、レディの生存中に描かれたものだとされていましたが、最近の調査で死後のものとわかっています」
リンジーは夫婦でこの館の管理をしている。雇われ管理人だ。ホテルの支配人はレーツェル家の当主が勤めていて、科学調査も支配人の指示で行ったと言う。
「レーツェル公の遺言でこの肖像画はここから動かすことができません」
ミシェルとディーンに断罪されたキャロルはその後死亡している。毒を呷っての自害であった。
キャロルの死後結婚したミシェルとディーンだが、悲劇が襲いかかる。新婚旅行先のこの館でミシェルが階段から足を滑らせ、転落死してしまったのである。
悲しみに暮れたディーンはこの館を終生の住処とした。だが悲劇はこれで終わらない。国王となったディーンの兄ジュリウスはキャロルの恋人の一人であった。
もともと国家財政は火の車だったところにキャロルに唆されての散財。おまけにジュリウスは政治にやる気を見せず、怠惰と享楽を止めなかった。結果、怒り狂った民衆が革命軍を組織し、首都ディンドンに攻め込みあっという間に王城を落としてしまったのである。
この革命軍を密かに支援したのがディーン・レーツェル公だといわれている。彼は兄と婚約者の裏切りに心を痛め、絶望の末に国を国民に託すことにした。援助金だけではなく武器弾薬まで横流ししていたというから本気で国を変えるつもりであったのだろう。
革命軍は資金不足で給料すら支払われていない王国軍を蹴散らして王宮に攻め入った。このあたりは史実として学校でも教えられる。子供でも知る民主化革命だ。
国王ジュリウスは斬首。その他レディ・キャロル・シエルバードと関係があった貴族の多くが断頭台に送られた。
一説には王家に継ぐレーツェル家の当主であるディーンを王に、という話もあったらしい。だがディーンは王にはならず、一人でシエルバードの館に移り住んだ。
レディ・シエルバードの名が残るわけである。恋と陰謀と革命なんて、後世を生きるカロラインたちからすれば心躍る題材でしかない。キャロルのやったことはたしかに酷いが、当時の貴族ならあたりまえの感覚でもあったはずだ。本人からすれば不本意だろう。
「一階にはレーツェル公の肖像画もあります。ちょうどレディと向かい合わせになるような形ですね。こちらも遺言で位置が決められています」
「他の肖像画はどういったものなんですか?」
「シエルバード伯爵家の肖像ですね。年代はバラバラですが……ただ、なぜか義妹のミシェルの絵は一枚もないんです」
「一枚も?」
「はい」
時は流れ、貴族の領地は国のものから国民のものになった。爵位に応じて税金の額も変わるため、領地のない貴族には爵位を手放した家も多い。
シエルバードの館のある一帯はレーツェル家のものであったが、例に漏れずレーツェル家も財政難にあえいでいる。現レーツェル家当主はなんとかこの館だけでも残そうと、館をホテルに改装して一般に公開した。
中世の雰囲気を味わえるホテル『レディ・シエルバード』の名物はホテルの名前にもなっているレディの肖像……ではなく、レディ本人である。
リンジーは何度も同じ話をしているのだろう。実に楽しそうにカロラインを脅かせてきた。
「ミシェルは亜麻色の髪に緑色の瞳をした少女です。レディは義妹に似た少女を見つけると……出てくるのですよ」
ホテル『レディ・シエルバード』はミシェルとディーンだけではない、レディが非業の死を遂げた場所でもある。
そう、レディ・シエルバードの霊がこの館に彷徨っているのだ。
「本当ですか?」
「どうでしょう? いや、私は見たことがないのですが、「見た」とおっしゃるお客様は亜麻色の髪に緑の瞳をした女性ばかりなんです。お客様は淡い金髪に蒼い瞳、レディに似てらっしゃるので残念ながらお会いになるのは難しいでしょうな」
「まあ。こんな綺麗な人に似ているなんて、お世辞が上手ですね」
本当にお世辞だ。似ているのは色合いだけで、カロラインはどこにでもいる冴えない顔立ちをしている。箱入りのお嬢様でもないため日焼けをして、右手の指にはペンだこができていた。
部屋に案内されたカロラインは南向きの窓から見える一面の草原に思わず声をあげた。
「わあ……」
チラチラと見える白いものは花が咲いているのだろう。カモミールやミントなどのハーブが自生しているとパンフレットに書いてあった。
幽霊付きのホテルやアパートは人気がある。ホテル『レディ・シエルバード』はキャロルが有名人というのもあいまって、予約でもちきりの高級ホテルだ。
そんなホテルに、カロラインは一人で来たわけではない。恋人のダレン・アンガスが後から合流する予定だ。
亜麻色の髪に緑色の瞳の少女と聞いた時、カロラインは驚きのあまり声をあげそうになった。義妹、というところでは心臓が厭な音を立てたほどである。カロラインの義妹ミュレルが、まさにその色をした少女だからだ。
どうしてダレンがわざわざ曰く付きのホテルを選んだのか謎だったが、義妹と継母にいびられているカロラインを励ますためだったのかもしれない。義妹をいびり抜いた幽霊を少しは見習え、ということではないだろうが。
「後で散歩に行こうかしら」
これといった観光名所はないが、心身の静養には良さそうだ。窓を開けたカロラインは風に乗って流れてくる草の香りに蒼い瞳を細めた。
短編にするには長すぎるのと場面転換があるので連載にしました。よろしくお願いします!