オープンチュートリアルー1
「お、あった」
引き出しの中にあった保険証を手に取る。間違いなく、自分の顔写真が印字された俺自身のものだ。
この保険証を見つけるのに手間取ってしまったため、窓の外は暗くなり、病院の受付時間より遅いことは明らかだ。病院に行くのは明日にすべきだろう。
引き出しの鍵がさっさと見つかればここまで手間取ることもなかったが、厳重に保管されていた引き出しの中には保険証以外にも通帳などいくつか生活に必要なものがそろっていた。
通帳には20万が入金された以降動きはない。日付は一年以上前の四月、大学に入学したであろう時期と一致する。
こうして探しているうちに少しは落ち着いたのか自分の現状を把握することができた。
記憶喪失にはなっているが、要所要所で覚えていることがある。自宅の場所、大学の場所、駅の場所などだ。
そして、一人暮らしをして、バイトはしていない。サークルなどにも加入していない。つまり、人間関係はほぼ構築していなかったのだろう。
「スミレ、面白いか?」
「ああ、実に興味深い」
俺が保険証を黙々と探している間、彼女は積みあがった漫画を読むことに夢中になっていた。
「こんあものがあるのか、勉強になるな」
そう言って神妙な顔でバトル漫画を読み始めた彼女も、今は楽しそうにコメディ漫画を読んでいる。
「保険証見つかったんだけど」
「ふーん、良かったな」
こっちの様子には全く興味がないようで、布団に寝転がって漫画を読み進めている。
「本名も分かったんだけど」
数時間前に仮の名前を付けてもらったものの本名は簡単に見つかった。
『細工 開』
保険証にはそう印字されていた。
奇跡か偶然かスミレが付けてくれた名前と一緒だ。
そんな偶然があるだろか。できすぎているような気がする。
ただ、今漫画を読んでいるスミレを見ていると疑っているこっちが馬鹿に思えてくる。
だが、俺には何もないからこそすべてを疑うべきだ。
スミレが敵だった場合、彼女の目的はなんだ?
夏季崖と敵対する組織からの刺客か護衛。記憶を失った俺から何かを引き出そうとする諜報員。
元々、俺の名前を知っていた可能性がある。それだけで湧き出した疑念は止まらない。
彼女の狙いの可能性はあげればきりがないが、もし敵だと確定したときにすべき行動くらいは決めておこう。
彼女が敵だった場合、自宅には戻れない。とにかく遠くに逃げるべきだ。
持ち物は保険証と通帳、暗証番号は……よし覚えている。
この二つを肌身離さず持っていればいつでも行動をおこせるだろう。
「細工開だろう?」
「ッ!! 知っていたのか!?」
出会ったのは数時間前、十分な信頼関係にはない。
だが、俺は彼女を頼りにしようと……。
心の中で何かが崩れかけ、元の空っぽの状態に戻っていくのが分かる。
ジェイソンから助けてくれた彼女も敵だったら、俺はもう何も信じられない。
「漫画の中に開宛てのメモ帳が挟まっていたからな」
「…………あ、そう」
俺の心配をよそにスミレは紙をひらひらと振りながらこっちを見た。
その紙にはおそらく高校の先生が書いたであろうお小言が書かれていた。丁寧に『細工開へ』という宛名つきで。
どうやら俺の早とちりだったようだ。
だが、通帳と保険証は肌身離さず持っておこう。
気が抜けた。
スミレを見ているととても平和に思えてきた。
漫画を読んでいる敵がどこにいるというのだ。俺にずっと背中を見せているスミレは敵前にいる状態とは思えない。
「スミレ、腹減ってないか?」
「私は食事も睡眠も必要のない身体だ。気にしなくていい」
「なっ! そんなの」
「人間じゃない、か」
「いや……ごめん」
図星を着かれたと思った。
抜けた気が凍り付いた部屋の空気で引き締まる。
「気にしないでいい。自覚してる。私がこの世界の人間とは違うってことはね」
漫画に向けたままの彼女の表情は見えない。だが、声音は起こっているというよりは悲しそうだ。
「そう気落ちしないで、私が食事ができないってことじゃない。開が外食に行くなら付き合うよ」
漫画を閉じて起き上がったスミレの表情は少し笑っていた。悲しそうに。
◇
まぁなんと言うか、予想通りではある。
スミレも初めは外出そのものに危険があるかもしれないと言って緊張感を持って周りを警戒していた。
ジェイソンが夏季崖の一言で虚空から突如現れたように、急に予想外の所で襲われる可能性がある。
歩いている間に何台かパトカーとすれ違った。おそらく大学での惨事が公の場で発表されるのももうすぐだろう。
数分後には家近くのファミレスに着き、食事の時間となった。
スミレはメニューを見ても何がいいのか分からなかったらしく、俺に任せると言って選択を放棄した。
本来食事が必要ない彼女にとって、今の状況は辛くないのだろうか。俺に気を使って同じ場所にいるだけかもしれない。
「すみません、ハンバーグセットと、チキングリルセットをお願いします。ドリンクバーはなしで、セットはパンから白米に変更してもらっていいですか?」
「かしこまりました。ごゆっくりどうぞ、失礼します」
丁寧な接客をしてくれたウェイトレスの女性アルバイターが去っていくと、スミレは少し驚いた顔で俺を見ていた。
「どうかした?」
「いや、少し驚いた。開は大食いなんだな」
「ぷっ!」
どうやらこの目の前の彼女はどっちのセットも俺が食べると勘違いしたらしい。
「1つはスミレのだよ。来てから選んでいいよ」
「そんな、勿体ないぞ! 恥ずかしい話だが、私には食事を開の様な人間ほど楽しめた試しがない。美味しさがわかる人が食べるべきだ」
自分に同じようなご飯を与えても意味が無いという彼女は本心を言っているように見えた。
食事を必要としない彼女もこの世界の食べ物を食べたことはあったらしい。
試したことがあってダメなら、本当に彼女には食事を楽しむという機能が俺よりも低いのかもしれない。
この頃の俺はまだそんなことを考えながらスミレのことを少し哀れに思っていた。
しかし、料理が届いと数分後に杞憂と判明した。
「美味しい! この量でこの味が楽しめるなんて!!」
グリルチキンの味に驚愕していた。
俺よりも食事を楽しんでいるようにしか見えない。
後から話を聞くに、過去に超が3つ付くほどのお高いお店のご飯を食べてあまり味が分からなかったらしい。その経験から人間の舌よりも劣っていて、自分には勿体ないと思っていたらしい。
「スミレは庶民舌だっただけだよ」
「庶民、なら開と一緒だな!」
そう、嬉しそうにチキンを頬張りながら、スミレは僕を庶民呼ばわりしたのだった。
まぁ庶民だとは思うけどね