ジェイソンゲーム
俺は昔から普通だった。
それは全く悪いことではなく、とてもいいことだ。
なにもかもチャレンジできる環境が普通にあり、普通に挫折した経験もある。
ただ普通に生きてきた。
普通の環境に、普通の才能。
身の丈に合った人生がここまでだった。
色とりどりだった世界の彩度は低くなり、マーブル状の世界に溶けて漂う。
だから、彩度が高く、まるで発光しているかのような景色を感じ、高揚感に支配されるのは久しぶりのことだった。
「た、助けっ」
普通の思春期の高校生活を終え、普通の大学に進学したのがこの春。
そして、今日という日を迎えられたのは普通の大学生活を送り始めて一週間経ってから。
今日、大学には異常犯罪者がテロを起こしに来た。
理由は権威ある教授の研究成果を奪うためらしい。
そして、俺はその教授の授業をたまたま受けていた。
さっき聞こえた声は人質として捕獲された女子生徒の声だ。
目的の教授が大遅刻しているせいで、無垢な女子生徒が捕まってしまったのだ。
講義室の外を見る限り小規模なテロではなく、大規模なテロだろう、人数がこの講義室を占領する以上の目的で動員されている。
今頃は教授の研究室も占領されているだろう。
ここ以外の講義室などにいた人たちも全て1箇所にまとめられて、人質とされている状態だろう。
つまり、どこもかしこもここと同じような為す術ない状況ってことだ。
これは流石にフツウじゃない。
イジョウだ。
ただテロ犯たちの言いなり。
普通に育った俺にはこんな時にも発揮されるようなヒーロー願望は持ち合わせていない。
そんな時、奪回できるチャンスは落とされた。
「な、なんだ!? 聞いてない、ぞ、ぉ」
ガスが充満し始めた。
講義室に完備されている空調の全てから白色の煙が吐き出された。
それは瞬く間に講義室を埋めつくし、例外なく、意識を奪った。
ホラー映画にはガス兵器はなかなか出てこない。
なぜなら、エロとバイオレンス、スプラッター、ことごとく需要がない兵器だ。
ただし、科学者がここに絡んできた場合、例外が生まれる。
もっとも有名なのはフランケンシュタインだろうか?
ここの大学に勤める、テロリストにも求められる教授は違った。
「まったく、ガス兵器というのはどうも準備の割に成果が悪い。だが、この中に未来のジェイソンが生まれると思うと悪いことばかりでもないか」
この教授が作ったウイルスは呼吸器官から体内に侵入することで、少量でも人間にとって致死量の猛毒となる。
ただし、適合者は違う。
あるとき、この教授は人間ではないなにかを作ろうと決心した。
その時点で法には触れる、なんやかんやでぶっ飛んでいる。
ただ、より理想的なものを求めるうちにウイルスは毒性を増し、適合の条件は削られた。
そして、ちまちま人体実験をするのが面倒になり、こんな惨状を引き起こした。
「善性と悪性といった不確かな要素が適合するかどうかにかかわってくるのかが不明だったゆえに、こんな大規模な人数を集め、準備をしたというのに」
そしてこの世にまるで神に愛されたかのように生まれてくる稀代の天才たちは、この世界を退屈だと思ってしまう。彼らがこの世界を退屈だと思ってしまうのはこの世界が器として未完成だからだ。
そこで天才たちは二つの道に分かれる。
・未熟な器を自らの才で補完しようとする道。
・未熟な器に関心がなく、破壊を顧みず、自らの才を振るう道
本当に突出した才は埋もれることはなく、必ず表か裏に現れる。
この教授は後者の道を進むことを決めた天才なのだ。
「……たい、くつだ」
そんなカオスとなった教室で立ち上がり、声を上げる男がいた。教壇の近くにいた男だ。
俺のように、後ろの席で授業を受けるやる気なし男ではないのだろう。
「おお! 適合者が現れたか!?」
その声は落胆とともにこの教室を去ろうとしていた教授の脚を止め、振り返させる。
生者がいたことに教授は歓喜の声を上げる。
そこには悪意などなく、興味以外の感情はない。
対する立ち上がった男は冷静に体の動きを確かめ、最後に喉を抑え、乾いた声をだした。
「あぁ、声は戻ったか。夏季崖 扇。お前はすでに組織に監視されていた。今回の騒動の落とし前をつけさせてもらう」
そう言って、冷静に胸元から拳銃を取り出し夏季崖教授に標準を定める。
「はぁ、貴様ごとき人間に少しでも興味を抱いたことが悔やまれる。おおよそ組織内で何かをやらかして、その汚名をそそぐためにこの任務に就いたのであろう。組織からしたら都合のいい厄介払いだったというわけだ」
「何を言っている」
「なぜすべてを説明せねばならん?」
まるで子供の見え透いた嘘の前にあきれる大人のように退屈で無価値なものを見る目を前に、ささくれだった男は拳銃のトリガーを引いた。
その男だって訓練された秘密組織の一員だ。末端といえ数メートル先の動かない老人を打ち抜くことくらい造作もない。百発百中だった。
今日という日までは。
「ジェイソン」
拳銃の発砲音と拳銃を支えていた両手は、無防備な老人の一言でひしゃげた。
「へっ」
間抜けな声を上げた男の両手は原型がなくなり、ただの肉塊として地面に押し付けられていた。
とっさのことで理解が追いつかない男はなくなった両手と吹き出す血を前に腑抜けた表情しかできない。
「ほかにも組織からの回し者がおるかもしれん。全員殺しておけ」
老人の言葉に無口の怪物は応えるように手に持った鉈を男に向かって振りかざした。
そのまま頭蓋に入刀された鉈は男の身体を真っ二つにした。
あっという間に起こった新たな惨事と、明らかに非日常的生物。
これではまるで、かつてのホラー映画に出てくる不死身の男その者ではないか。
物音立てず虚空から現れた巨漢。
圧倒的腕力で男を殺し、言葉を発することなく、他の生者を探し、見つけては抵抗を許すことなく殺していた。
その様子を老人は見ることもなく、教室から出ていった。
そして、ついに俺の前でジェイソンが止まった。
「ここで終わりか」
二十年以上、普通に生きてきた。
走馬灯はない。
死んだふりをしている頭にむかって鉈が振り下ろされる。
人間、極限の状態ではすべてがゆっくりに見えることがあるらしいが、今がそうみたいだ。
しかし、神がくれたこの時間にも俺は何も思いあがってこない。
俺はどう生きてきた。
普通に? 普通ってなんだ? 普通は普通だ。
だが、それを示す具体的な記憶がない。
『俺の名前は』
名前すら思い出せない。まるで、作られたかのように、今、ここに出来上がったかのように。
この死に際にて初めて、己がないことを知る。
『珍妙な死に人よ! 私の声が聞こえるならば、この声に応えろ! 応じれば命と願いをかなえてやる! さぁ、誓え!!』
スローモーションで進む世界に女性の声が等速で響いた。姿は見えない。
死にたくない。
このまま、空っぽなまま、何もないまま死にたくない!
この声に従えば、死なずにすむのか? ここまでの道のりを思い出すことができるのか?
「ここに誓う! 俺の願いは俺を知ること、それ以外すべてを捧げる! なんでもいい、助けてくれ!!」
世界は声とともに等速に戻る。
この瞬間、俺の人生が始まった。
これは俺が俺であった過去を見つける物語ーーではない。
俺が彼女の願いをかなえる物語だ。