第五十九話 熱帯夜なのである
趣味嗜好は移ろうが、培った経験は失われない。
人の趣味や好みなんてのは年齢に応じて形を変えていく。『ゲームが趣味』とか『女の子が好き』みたいな根幹は変わらなくとも、多くの場合その細部は変わっていくものだ。
スーパー◯リオが好きだった子もAPE◯の方が好きになったりするし、同い年のJSが好きだった子もいずれはJKが好きになる。
勿論趣味嗜好が変わらない人もいるだろう。だがそういう人が少数派なのは言うまでもないことだ。
大人になってもアニメや漫画やゲームが好きな人を『オタク』と呼んだり、幼い子供が好きな人を『ロリコン』と呼んだりするのは、そうやって呼ばれる側の方が少数派だからなのである。
人の精神というのは体の成長と密接に関係している。
僕の中身は男子高校生だというのに、幼女時代に精神面が不安定すぎたり、泣き虫だったりしたのは体のせいなのである。生物の仕組みとして自立できていないからあんな感じになっていたのだ。言い訳でもなんでもなく大真面目に。
最近僕が『性』に対して敏感なのもそのせいなのだ。元の年齢と変わらなくなってはきたが、中学生と高校生の間の3年の差というのはでかい。実際、僕がマジに中学生の頃は当然のように『性』に夢中になっていた。
あと最近になってようやく気が付いたのだが、女性の方が感情の揺さぶられ方が大きい。しかも負の方にだけ。
科学的に証明されているかどうかはもう知る術がないが、明らかに女性の方が喜怒哀楽の『怒』と『哀』だけ強く感じる。怒りで泣けてきたり、悲しみで苦しくなったりなんてのは男の頃は1度もなかった。きっとストレスに対する耐性が男性の方が強くできているのだと思う。
ただ、『強いストレスに対する耐性』については男性の方が低いと思う。これは僕自身のことではなく周りを見てきて気がついたことなのだが、今まで出会ったことのないような強いストレスに直面した時は男性の方が簡単に折れてしまうのである。
だがこれは性別による耐性の差ではなく、経験によって生まれる差だと思う。男性は弱いストレスを難なく乗り越えられてしまうからこそ、普段のように乗り越えられないストレスに直面した時に弱いんじゃなかろうか。
大きく話が脱線したが、要するに人の趣味嗜好は年をとれば当然に変わるものであるということだ。
僕が『ねこ』や『いぬ』を愛用していた1番の理由は「可愛いから」だったと思う。
当時は「便利だから」だとか「ちょうどいい練習になるから」とか思っていたのだが、本当に利便性を重視するのであれば鳥型の方が使いやすいというのが普通の考えだろう。そんなこと全く考えずに喜んで犬猫を使っていたのは、やっぱり僕が精神的に幼かったからだと思うわけである。
『リート』で遊んでいたのは音楽が好きという側面以上に、ティアと一緒に遊べるのが楽しいからというのがあった。
僕は音楽が好きなのでティアと遊ばなくなってからもしばらくは続けていたが、いつのまにかリートを使わなくても魔術だけで好きな音を出せるようになったので、今年の春あたりから全く触らなくなった。
まあ正直なところ、触らなくなった原因の大部分は僕のセンスにある。
プロの演奏家みたいにセンスのある人というのは、リートを使ってただ音を出しているだけではない。それが技術なのか、魔術なのかなんなのかは全くわからないが、僕が完コピしても何かが違う。それは絶対に埋まることのない才能の差であり、追いかけるだけ無駄な理想なのである。
僕みたいに『音を出す』で終わってしまう凡人なら、リートを使おうが音魔術だけで済ませようが結果は変わらないのだ。
僕の趣味嗜好はこれからもどんどん変わっていくだろう。
正直な話、男性と恋愛をすることに対する抵抗は消えていないが、女性と恋愛をすることに対する抵抗は生まれ始めている。もしかすると僕はもう誰かを愛することはできないのかもしれない。
そんな風に考える深夜2時。
窓の外からは虫の鳴き声しか聞こえてこない。いま僕が大声で歌ったたらどこまで届くのだろうか。トゥリーの家までは届くだろうが、ティアとかサリアの家の方まで届いたりするのだろうか。
試してみようか真剣に考えたが結局やめる。
下らないことを考え始めると目が覚めてしまう。と、思った時にはもう覚めている。なんでこんな時間に起きてしまったのかわからないのだが、なんだかもう眠れる気もしない。思考回路がおかしくなっている気がするあたり、多分完全に体が起きているわけではないと思う。
明日から第二魔導部の遠足である。
嘘。日付が変わってるから今日からである。
ボスとヨアが帰ってからというもの、夏休みぽいイベントがないまま1週間が経過。久しぶりのイベントなのである。
今日から明後日にかけて2泊3日でパークス領のポルメイウス市に行く。ヨーグ氏と一緒に研究をしていた人の研究室に行って、その後パークス領主家にお邪魔させて貰う。大変珍しい部活動ということでカドルテ様とドルモンド様が是非会いたいと言って下さったからである。
パークス領1の大都市に行くのも楽しみだし、部活のみんなと旅行なのも楽しみだし、久しぶりにドルモント様に会うのも楽しみである。
実はドルモンド様とは小学校入学前に会ってから一度も会っていない。毎年領主様と各長達による食事会というのはあるのだが、子供達が呼ばれたのはあの1回だけだった。
だがコミュニケーションが全くないわけではない。小学校1年生の時の食事会の後パパがドルモンド様からのお手紙を持って帰ってきてくれて、そこから文通をするようになった。まあ頻繁に文通をしていたのは最初の1年くらいのもので、そのあとはお互いに上手い感じに距離感を掴んで半年に1回くらいになった。
何はともあれとりあえず会うのが楽しみだ。
そのせいで眠れないという可能性も大いにある。大いにあるけど楽しみだからこそ寝ないといけない。
てかそれにしても暑すぎるのである。熱帯夜。
起きてしまったのはこの暑さのせいだろうか。汗でシャツがべったり体に張り付いているし、髪の毛も顔に絡まって張り付いているしで不愉快極まりない。
僕の眠る時の服装は上パジャマで下パンツ。パジャマのズボンは布団に入る前に脱ぐ。暑い日にパンツで寝てからというもの、寝る時にズボンを履いているのが不快になってしまったのである。関係ないけど冬もパンツで寝る。毛布に当たる面積が広い方が気持ちがいいのである。
こんなに暑い夜はトールマリス王国では初めてだ。まるで日本の熱帯夜かのような暑さだし、冷房がないから地獄である。公園でボスとラファが暴れてんじゃないかと思ってしまうが、音が聞こえてこないからそれもない。
暑いと頭がふらふらしてくる。いや、もしかしたら脱水症状かもしれない。
いま下に水を飲みに行ってしまえば確実に目が完全に覚めてしまうだろう。そうなればあと3時間くらいは何もすることができないままぼーっとしてないといけなくなる。家の中で音を出すわけにもいかないし、外出するわけにもいかない。
てかこうやって考えてる時点でもう頭は覚めてしまったし、脱水症状で死ぬくらいなら水を飲みにいく方がいいに決まっている。
体を起こすと頭がふらふらしてくる。ベット正面の棚の上にあるぬいぐるみ達がめちゃくちゃに歪んで見える。勢いよく立ち上がらなくて正解だった。一旦落ち着いてから体を90度回して淵に座る、そこからゆっくり立ち上がる。寝起きの立ち上がり方には注意が必要なのである。
「あ、っぶ、、いって!!」
ゆっくり立ち上がったというのにこけた。
バランスを崩してケツから落ちたのだが、一歩進んでいたせいでベットじゃなくて床に落ちてしまった。石よりはマシだが木でも十分に痛い。これが冬なら絨毯があるからこんなことにならないのだが、冬はそもそも熱中症で夜中に起きるなんてことないしジレンマなのである。
廊下から足音が聞こえる。起こさないように静かにしようとしていたのに起こしてしまった。最悪である。
「入るよ」
ノックすらせず無遠慮に入ってきたのはまさかのラファ。正直ママかパパが来ると思っていた。まあ部屋が隣だしラファが1番最初に来るのは当たり前といえば当たり前である。
「!?まぶしっ!電気つける前に一言かけてよ!」
部屋に入るなりラファは電気をつける。めっちゃ眩しくて目が痛い。本当にガサツな妹である。
「…………そこに座って動かないでおいて」
そしていきなり出て行く。こいつマジでなんなの?
明るさに目が慣れてくるとヤバさに気がつく。
僕自身も汗でびしょびしょだが、ベットを見れば漏らしたんじゃないかってくらいシーツがびしょ濡れである。これを見たらラファだって変な思い込みをしてしまっても仕方ないのである。
本当に全部汗だから勘違いしないでもらいたい。身体年齢がどうのこうのっていうのはあっても、流石に僕はお漏らしなんてしないのである。
お漏らしだと思われればまだマシだが、なんかエロいことしてたんじゃないかと思われるとかなりまずい。ベットの下に畳んで置いてあるパジャマのズボンとかが勘違いを生みそうである。妹にその手の勘違いをされると死にたくなるかもしれない。
あ、ラファが帰ってきた。
「か、勘違いしないで欲しいんだけど―」
「2人には私が見るから大丈夫って言っておいたから。とりあえずこれ。自分で飲める?」
コップに入った水を渡される。
ラファの左手には着替えとタオル、右手には水の入ったピッチャー。僕を見捨てていったのではなく必要なものを取りに行ってくれていたのだ。お姉ちゃんのくせに妹のこと信じてあげられなかったのである。
コップはいつも使っている木のマグカップ。中に入っているのはいつも飲んでいる冷えたお茶ではなく、なんとなくぬるい水。なんでぬるい水やねんとツッコミを入れたいところだが、確かなんか空きっ腹にビールを入れちゃダメみたいな感じでいきなり冷たい水はダメみたいな話もあった気もする。
「…じっと見られると飲みにくいよ」
そんなに見つめられるとなんかなんとなく飲みにくい。
まあそれはそれてして、ただのぬるい水だというのが信じられないくらいおいしい。脱水症状だったからというのもあるかもしれないが、妹が持ってきてくれたからというのがめちゃくちゃ大きい。疑ったくせに姉ヅラすんななんて言わないで欲しいのである。
「床だと着替えさせにくいからベットに座り直して欲しいんだけど、できそう?」
「…手伝ってくれたら嬉しい、です」
「首の後ろに手を回して体重全部こっちに乗っけて」
本当に信じられないほどにラファが優しい。こんなこともう2度とないかもしれないし、甘えるだけ甘えたい気分になってきた。熱帯夜様々でなのである。
あ、てか
「ラファもちゃんとお水飲んだ?ここまで寝苦しいほどの熱帯夜なんて初めてでしょ?」
「今夜はそんなに暑くないよ。あなたが暑く感じるのは病気のせい。手、上にあげて」
なるほど。暑いから体調が悪いんじゃなくて、体調が悪いから暑かったのか。
「うわ、シャツ重っ」
ラファは僕のシャツを持つと露骨に嫌そうな顔をする。「重っ」だからまだ耐えられたが「臭っ」だったら病気が悪化して死んでたかもしれない。僕は生意気系ツンデレ妹は苦手なのである。もっとこう「お兄ちゃん!すきっ!」って感じの妹が好きである。
「…ごめんね、ママかパパと変わっていいよ。ラファにうつしたら悪いし」
看病される側が「変わっていいよ」とは何様のつもりだって感じはあるけど、まあそんなことはどうでもいい。
「2人にうつる方がよくないから仕方なく私が見てるんじゃん。パンツも脱がせるから、これ」
まあ確かにママが病気で倒れたら我が家が終わるし、パパが倒れても仕事に支障がでる。夏休みだしラファがリスクを負うのが家として1番丸いのかもしれない。
ラファがくれたハンドタオルで顔を拭く。なんかちょっと泣きそうだったから顔を隠す意味もあるのである。我が妹ながら気が利きすぎる。
「…顔じゃなくてもっと隠す場所あるでしょ。恥ずかしいから顔を隠すって、バカなの?」
「ご、ごめん!」
それに対して姉は気が利かなすぎる。
僕にもし兄がいたとして、そのパンツを脱がせなくちゃいけないなんてことになったら正直めちゃくちゃ嫌だろう。つまり僕は少しでもラファに嫌な思いをさせないようにしなくてはならなかったのである。
妹に服を脱がしてもらって、汗を拭いてもらう。
絵に描いたような萌え萌えシュチュエーションなのにマジで死にそうになる。見られるのとか拭かれるの自体が恥ずかしいんじゃなくて、妹にやらせてしまっているというのが恥ずかしい。これが逆なら喜んでやるのだが。
「まことにに申し訳なく思う所存でございまる…ます」
「変な気は使わないでいいから。今日一日ごめんは禁止。言われる方がうざい」
死にたい。死にたいは嘘だけど、今すぐ消えたい。
「楽しみにしてたようだけど旅行も欠席ね。トゥリーに私から言っておくから」
あ
「お、お姉ちゃんつい嘘ついちゃったーー!ごめん、ごめん!本当は元気なの!ちょっとお漏らしして焦ってベットから落ちちゃった!いやーこの歳でお漏らしなんて恥ずかしくっ、へっぷしょーーーいっ!!」
失礼。くしゃみである。
「水汲んでくるから大人しく寝てて。布団はどうする?汗が気持ち悪いようなら私の持ってくるけど」
「いやだなーもう!本当に大丈夫だよ!あでも、布団は変えたいかな!だってお漏らししちゃったし!」
「ん。じゃあもう少しだけ汗で湿った布団で待ってて」
取り付く島もないのである。
どうしよう、このままだと本当に欠席になってしまう。
ラファが階段を降りて行く音が聞こえる。逃げ出すなら今なのかもしれない。
窓から外に出てトゥリーの家に行く。そして追っ手が来る前にトゥリーと共に学校に向かって誰にもバレないように馬車を待つ。みんなが馬車に乗った後、出発の時間ギリギリに駆け込めばなんとかなるだろうか。
ここで先生に対する『貸し』を使うのもありだ。背中の傷を見せて「どうしても旅行に行きたいです」って言えば味方になってくれるだろう。帰ってからパパママラファに怒られるのはこの際仕方がない。
…怒られるのは仕方ないけど、こんなに心配して面倒を見ようとしてくれている妹から逃げるというのはどうなんだろうか。
いかんいかん!悩んでいる時間なんてない!
ラファが帰ってくるまでの数10秒で計画を開始しなくてはならない。パジャマのズボンまで履かされていてよかった。流石にパンツで外に出るのは無理だったのである。




