閑話 もう一つの首都
いい夫婦の日
トールマリス王都から遥か南西。
海を渡ったその先に魔族の住む国『ルフミゥア帝国』は存在する。
「相変わらず、か」
タウラスが最後にこの地を踏んだのは8年も前のこと。
だがその景観は良くも悪くも8年前から変わっていない。
昼間だというのに薄暗い灰色の空、幾何学的に並べられた飾り気のない建物、ゴミひとつ落ちていない舗装された道。
いつも賑やかな王都とは対照的に、帝都は今日も閑散としている。
灰色の街。
帝国の民は畏怖を込めて帝都をそう呼ぶ。
「こうではなかったんだがな」
タウラスは帝都で生まれ帝都で育った。
彼が両親と暮らしていた頃の帝都は、それこそトールマリス王国王都のように賑やかだった。
今歩いている中央通りも昔は賑やかで、道沿いには出店が並んでいた。小さな子供では安全に歩けないほどに人がごった返し、隣の母の声さえ聞こえないほどに賑やかで、足元にはたくさんゴミが落ちていた。
人によっては。
いや、彼にとっては静かで清潔な方が理想の都なのだろう。
だがタウラスにとってはそうではなく、あの頃の喧騒こそが理想の都だった。
自分達の娘も帝都生まれ帝都育ち。
タウラスは娘に賑やかな帝都を見せたいと思う一方で、それが叶うことはないと諦めてもいる。
彼が最後に娘に会ったのも8年前。
子供の成長は早い。きっと見違えるほど大きくなっているのだろうと、寂しさを伴った感慨に浸る。
灰色の街をひたすらまっすぐ進む。
彼の目的地は帝都中心にある漆黒の城。
燈黒城と呼ばれるその城は、皇帝の居城であると同時に、帝国軍の本部でもある。
用があるのはその最上階にある彼の執務室。
窓から溢れる光は彼の在席を示している。
「…あと少しだけ待っててくれ」
我が家へと続く曲がり角を無視して直進を続ける。
彼に呼びつけられたとあれば、最愛の妻子に会うことすら後回しにしなければならない。
―― ―― ―― ―― ―― ―― ―― ―― ――
不穏な空気を感じる。
第六感と呼ぶべきものだ。
説明はできないが、部屋の中には俺が恐れている何かが待っている。
久しぶりにリブラに合うだけでこうはならない。
確かにリブラの執務室に入るのは皇帝の前に立つよりも緊張する。リブラに呼び出されれば誰しもが凍る。
だが、今俺が感じている恐怖はそんな次元ではない。
頬に汗がつたうのを感じるが、一息をついてなどいられない。少しでも奴の機嫌を損ねないようにしなければ。
重い黒鉄の扉を2度ノックする。
俺に決められた執務室への入室方法。
「ああ、入ってくれ」
重たい扉を引く。
記憶より重く感じるのは、これも第六感のせいなのだろうか。それとも8年の間に改修でもしたのだろうか。
扉の中は城の外のような殺風景。
最低限の家具が置かれただけの灰色の部屋。
「お父様!!」
「静かに。いまお父様はお仕事中だから」
そこに待っていたのは来客用のソファに座るロクトルと赤い髪をした少女。
ロクトルと同じ赤髪に俺と同じ碧眼。
記憶の中の姿とは大きく異なるが愛娘を見間違えるはずがない。14歳になったケシーだ。
2人の姿を見て嫌な予感がさらに加速する。
だがまずはひとまずの無事を喜ぶべきだろう。
妻子にはあえて触れず、視線をその奥に向ける。
いつもの位置に、いつものように座る黒髪の男。
「久しぶりだねタウラス」
ペンを置いて顔を上げる。
俺が触れればすぐに死んでしまいそうな男。
初見であれば少女と勘違いしてしまいそうな男。
血が通っていないように真っ白な肌をした男。
そして、無限に続く深い闇のような瞳を持つ男。
8年前と全く変わらない。
出会った頃からいつまでも変わらない不気味な男だ。
「なるべく急いで来たんだが、それでも待たせたな」
「いや予想通りの到着だよ。急いでくれてありがとう。2人にもついさっき来てもらったところなんだ」
「なぜ2人をここへ?」
「なぜだと思う?」
なぜ?
リブラがなぜ2人を呼んだのか。
こいつは意味のない行動はしない。2人を呼んだのには絶対に意味がある。久しぶりに帰ってきた俺に合わせるためとか、そんな意味のない意味ではない。
2人の様子を見ても答えはわからない。
何も聞かされていないのだろう。ただお茶をしているだけだ。
ケシーはロクトルに似た美人に育ったが、表情や動きからは昔と変わらないやんちゃが伝わってくる。
ロクトルからは歳の変化を感じない。膨大な苦労をかけたはずなのに、そんな様子はちっともない。8年前と何も変わらない、美しくて器量のいい彼女のままだ。
嫌な予感なんて俺の勘違いかもしれない。
リブラからは2人や俺に対する敵意は伝わってこない。
だがもし万が一俺の嫌な予感が当たっていたとしたら、なんとしても2人だけは守らなくてはならない。
「わからんな。俺とお前の話になぜ2人が関係あるのかさっぱりだ」
「ピスケスとは最近あったかな」
ピスケス?
ピスケスが関係あるのか?
もしかして…
「いや、会ってないな。向こうに行ってばかりの時は頻繁に寂しい寂しいと言っていたが、まあ慣れたんだろう」
ピスケスの名前を聞いたケシーが魚のぬいぐるみを強く抱きしめる。
父と親友がいなくなって寂しい思いをしている娘のためにロクトルが作ったのだろう。少し萎びたぬいぐるみからは、ケシーとともに8年間を過ごしたことが伝わってくる。
「君を呼び出した理由は七つ質問したいことがあるからなんだ」
リブラの質問が始まる。
ここからが本題。一度の失敗も許されない。
「早速一つされたな」
「それじゃあ二つ目だ。ピスケスを殺したのは君かな?」
陶器が割れる音が室内に響く。
場の空気が凍る。
「待て、リブラ。2人の前でする話じゃない」
ロクトルは表情を失い顔を真っ青にしている。彼女の前には割れたカップが散乱している。
ケシーは言葉の意味を受け入れられていないのだろう。ただ茫然とこちらを見ている。
「理由や言い分は聞くけど、質問へは必ず答えてくれ」
「答えはnoだ。当たり前だ。俺からも聞きたいことがあるがまずは2人を離席させてくれ」
「君の質問への回答はこうだ。諜報員からトールマリス王国で強大な魚の魔人が牛の魔人に殺されたという情報が入った。公にはされてないようだけど王国上層部にはしっかりとそう伝わっている」
そんなはずがない。そんなはずは絶対にない。
大体ピスケスが殺されたことすら事実とは思えない。
あいつには何度も隠密にしておくように言った。それを守れないあいつじゃない。
それに、もし見つかったとしても殺されるはずがない。
ピスケスが本気で逃走すれば、捕まえられる奴などこの世に存在しない。サジタリウスやレオでも無理だろう。
「王国上層部に既に諜報員がいるとは流石だな。だがその情報ははっきりと嘘だ。諜報員が嘘をついているのか、その情報事態が嘘なのかは定かではないが」
「ピスケスを配置した森でピスケスが戦闘を起こした事実は裏が取れている。その森で異常な気象では片付けられないような騒ぎがあったみたいだ。その後諜報員はピスケスを探したがどこにも見つからなかったそうだ」
「…ピスケスは殺されたと考えるのは間違いないわけか」
もし何か万が一があった場合、あいつが逃げてくるのは俺のところのはず。
その場に姿がない、俺のところにも来ていない。それはつまり死を意味する。
嫌な予感が的中した。
扉の前から感じていた不穏な気配の正体はこれだったのか。
……。
残酷で薄情な自分を心底軽蔑する。
――今俺は最低な考えをした。
自己嫌悪を打ち止め冷静に戻るように徹する。
リブラからの質問はまだ始まったばかり。
「悲しいよ。体の一部を失ったようだ」
どの口が。誰の前でそんなことを。
潜入には向いていないという俺からの進言を断り配置したのはお前だろ。よくもまあロクトルとケシーの前でそんなことを。
なんて風に言い返せるはずがない。
ここから先の質問にまだ恐怖を感じている。
「さて三つ目の質問だ。奥さんと娘、どちらを選ぶ?」
――世界は思っていたよりもずっと残酷だ。
リブラの天秤は既に傾いている。
それも俺にとって最悪の方に。
「質問の意図がわからない。答えはどちらも選ぶし、どちらも選べないだ」
「タウラス、君は私を裏切って私からピスケスを奪った。君だけなにも失わないなんて――それは平等じゃない、そうは思わないかい?」
落ち着け。言葉を慎重に選べ。
どうしてこうなったのかはわからないが、それでもまだ取り返しはつく。まだ決まったわけではない。
慎重に、だが相手に隙は与えないよう迅速に。
こいつのペースに飲まれてはいけない。
あくまでも対等な話を進めないとならない。
「ピスケスを殺したのは俺ではないと答えたはずだ。奪われたのはお前だけじゃない」
「それならば質問四つ目と五つ目だ。君の考えではピスケスを殺したのは誰かな?どうして牛の魔人の存在を人間が知っているのかな?」
「殺したのは王国上層部の精鋭だろう。人間にもピスケスを殺しうるやつはいるはずだ。その辺りに詳しいのは俺よりもお前のはずだ。俺の存在を知る理由は皆目見当もつかん。俺が人に見つかったことなどない」
「君の質問への回答だ。私の知る限りのピスケスを殺せる人間はその場にいなかった」
「優れた人間の誰もが地位を欲しがるわけではない。隠れた何者かが排除したんだろう」
「六つ目の質問だ。私が君に下した命令を覚えているかな?」
「誰にも絶対に見つかることなく指示を待て。だ」
「これで最後の質問だ。――命令を守れなかったのであればそれはそれで然るべき罰を受けるべきだよね」
「答えはyesだ。だが俺は絶対に人間にバレていないという自信がある。疑わしきはむしろその諜報員とやらの方だ」
「諜報員は頭を開けて確認できる作りになっているから嘘偽りは100%ないよ」
「であれば…」
…しまった。
「――君のミス。という他ないよね」
言葉に詰まってはいけなかった。
必ず反論を続けないといけなかった。
最も恐れていた取り返しのつかない失敗だ。
「世界は平等じゃないといけない。私からピスケスを奪ったのであれば、君も一つ失うのが平等。そういうものだ。そういうものじゃないといけない」
「何度言ったらわかる、俺は殺してない」
「そうだね。君が殺してないのかもしれない。でも私にはそれが本当なのかわからない。それを知るのは君と、いるかもしれない真犯人だけだ。もし君が本当に殺してないのであれば今から私がすることはミスということになる」
リブラの言葉の意味を理解する。
全身から汗が噴き出る。
血の気が引いていくのがわかる。
最悪の最悪。
理解を拒む、受け入れ難い絶望。
「待ってくれ。俺が殺すわけがない。俺がピスケスをなんて、そんな、そんなのありえないことくらいお前にもわかるはずだ。ピスケスは俺がお前に紹介したんだぞ」
「それは私には測りかねる。『君が殺したのか、そうではないのか』その2択はつねに半々だよ」
「…待ってくれリブラ頼む」
「三つ目の質問に君はどちらも選ぶし、どちらも選べないと回答したね。それなら私の方で選ぶとしよう」
「リブラ様。私を殺してください」
「ロクトル!黙っていろ!」
「タウラスにはまた王国に行ってもらうことを考えると、ケシーだけ残されるのは酷だと思うんだ。大きくなったとはいえ、1人で生きていくには難しい年だ」
「私の命を差し出しますので、どうかケシーに優しい養母をご用意くださいませんか」
「ここでロクトルを殺してしまえば、ケシーまで死んでしまうことになりかねないよね。それならケシーを殺す方がいいか」
決断したリブラには誰の言葉も届かない。
止まってしまった天秤は、絶対に動かない。
「頼む、頼むよリブラ、信じてくれ。俺じゃない…俺じゃないんだ…」
「ごめんよタウラス私にはわからないんだ。この決断が私のミスだったのであればとても申し訳なく思う。でもねタウラス、君だってミスをした」
「…頼む、頼むよリブラ。お願いだ、お願いだから…」
「私の決断がミスであったとしても、その場合君もミスをしたんだから、これもまた平等だよね」
「…どうか、せめて、俺の命で勘弁してくれ。それもまた俺の大切なものだ。平等なはずだ」
「タウラスにはまだやって欲しいことがある。ここでタウラスを失えば私も大切なものを失うことになる。それは平等じゃない」
「その言い分が通るならロクトルとケシーを殺しても同じだろ?お前は2人によくしてくれていたじゃないか。結婚式にも来てくれた、立派な家を用意してくれたのもお前だ。ケシーが生まれた時にベビーカーを買ってくれたのもお前だ。俺が持つには小さすぎたね、なんて笑って…」
リブラにとって2人がなんでもない存在なんてことはわかっている。ただのパフォーマンスとして良くしてくれているだけだ。
優しい人間、出来た上司。
そんな仮面を被るためのパフォーマンス。
だが、こいつはそのパフォーマンスを崩したりしない。
そこにつけこめればまだ…
「…本当に残念だよ。私も仕事が絡んでいなければ2人を殺すなんて考えもしなかったのに」
「りぶらぁ…っ!!後生だ!どうか、どうか、どうか…頼む頼む頼む頼む頼む頼む頼む頼む頼む頼む頼む頼む頼む頼む頼む頼む頼む頼む頼む頼む頼む頼む頼む頼む頼む頼む頼む頼む頼む頼む頼む頼むから!!」
涙で歪んだ先に見えるのは、どこまでも変わらない奴の姿。
こいつ相手に情で訴えるなんて下作中の下作。
…ああ、俺は…。
「君とは長い付き合いだ。最後にもう一度三つ目の質問をしよう。君は奥さんと娘どちらを選ぶ?」