第八十九話 旅行最終日なのである
王都旅行編最終回です
今日の日付は12月18日。
宿泊地はフェード領ミシト町。まだ日が昇っていない寒空の下、眠い目を擦りながら馬車に乗り込んだのは、つい昨日のことのように思える。
この町を出てから1週間が経っているとは思えないのである。
「お帰りなさいやせ。王都はいかがでした?」
宿に入り次第荷物を運びにきてくれたのは、ハゲ頭の快活そうなおっさん。おっさんを見てようやく帰ってきてしまった実感が湧く。
今日は旅行最終日。
明日の朝この宿を出たら、後はもう馬車に乗って家に帰るだけ。明日の夜はいつも通り、自分の部屋のベッドで眠るのである。
できるだけ長く感じるように、できる限り時間を数えていたつもりだった。それなのにもう最終日。
結局あっという間だったのである。
見慣れてきた王都の景色から一転、灯りも装飾も控えめな街灯と、魔石に飾られた石造りの低い建物。
山の上だからなのか今日も快晴。星で満ちた空は地上よりも明るくすら見える。
「おもしろかったです。いろいろ。全部」
楽しかった。面白かった。
お土産もたくさん買った。
早く家に帰ってお土産を開封して、サリアとかヨアに渡したい気持ちも強くあった。
そんなふうに思っていた王都での2,3日目の夜を勿体なく思う。帰りたいなんて思うのはなんて贅沢だったのだろうと。
「そりゃよかったっす。さ、この前みたくちゃっちゃと運んじゃって、ぱっぱと風呂入ってきてくだせぇ」
「ありがとうございます」
この宿が最後の観光地。
どうしてもしんみりしてしまう。
長らく感じていなかったこの感覚。
幼かった頃に父と母と出かけた帰りの感覚だ。
車に乗り、道路を走る。
行きとは違う景色は、綺麗なはずなのにどこか寂しくて、あの頃の僕は夜景が嫌いだった。
そうだ。僕は夜景が嫌いだった。
いつから夜景を純粋に綺麗と思えるようになっていたのだろう。今寂しく思っているということは、中学生の間に克服したのだろうか。
「なに感傷に浸ってんの」
「んー…いや。旅行終わっちゃうな、って」
「また行けばいいでしょ。いいから荷運び手伝って」
ちっとも寂しそうじゃないドライな妹に従って、荷物を運ぶ。宿の中に入れればいいだけだから大した作業量ではない。
そういえば行きもラファに怒られたな…。
「…ラファもいなくなっちゃうんだなって」
散々泣いたはずなのにまだ寂しい。
来月からは家に3人だけ。
そうなると家族の時間というのは大幅に減る。
そうしている間に僕も家を出る。
そしてそれぞれの道へ進んでいく。
実際のところ、人生における家族の時間というのはもう8割近く終わっているのではないだろうか。
家族4人でいる時間というのは、もう数えられるほどしかないのではなかろうか。
「…まだ半月あるから」
「半月しかないんだよ。ずっと一緒だったのに」
「ずっとでもないでしょ。一緒に戻ったのは最近の話」
「…じゃあ家を出るまでは一緒にいてくれる?」
「……勝手にすれば」
荷運びを終え、風呂道具と着替えだけを取り出す。
そういえばこのパジャマはラファとお揃いのもの。
ズボンが嫌いな僕のためにママが買ってくれた、冬用なのに短パンのパジャマ。
本当はズボンが嫌いとかじゃなくて、毛布が当たる面積が多い方が好きというだけなのだが、そこはまあ大きな差ではないのである。
それにこのパジャマはもこもこしている。肌触りは完璧なのである。
歩くと少し軋む廊下を進み、左手側の脱衣所に入る。
年季の入った宿だが、ゴミや埃は今日も見当たらない。いい加減な喋り方の親父だが、相変わらずのプロフェッショナルなのである。
脱衣所の中には一組の先客がいた。
2人連れの先客はおばあさんとおばさん。おそらく母と娘なのだろう。
2人は風呂上がりのようだが、石棚にはその他にもいくつかの痕跡がある。
今日はこの前のような貸切ではなさそうだ。
「あら可愛らしいお嬢さん方。姉妹?お友達?」
おばあさんの方がラファに話しかける。
ラファに話しかけたのは嫌がらせではない。1番おばあさんの近くにいたのがラファだったからというだけだ。
「家族です」
「お母さん、見ればわかるでしょ。どう見ても姉妹じゃない。そっくりなんだから」
「あらそうねえ。ごめんねぇ。お姉ちゃんと妹さんは特にそっくりねぇ」
「はい」
おい、なんだ『はい』って。
別に『母と姉です』と訂正しろとまでは言わないが、あまりにも会話が下手くそ過ぎるだろ。
ラファは目を合わせようとせずに、着替えをやけに丁寧に置いたり、ゆっくり上着を脱いだりしている。
ああ、そうか。
ラファは人前で着替えるのが恥ずかしいのだった。
「みんなはどこから来たの?ここにくるのは初めて?」
そんなことを知るはずもないおばあさんは、着替えを止めてラファに話しかけ続ける。
「王都に行った帰りです」
「そうなの!王都に!なんの用事で行ったの?ただの旅行?この時期でお嬢さんの年だと受験かしら?」
「受験です」
「やっぱり!この子も昔受験で王都に行ったのよ〜!ね!それで、どこの学校うけたの?うちの子はねマルトヒルス女学院に通っていたのよ!あの五学院のひとつのね!」
「お姉ちゃんはやくいこ!」
ラファに助け舟を出すためにさっさと脱いで、いち早く風呂に行きたい感を出す。妹を助けるためなら妹のふりくらいはするのである。
ちなみにママはこういう時、ラファ以上に喋らない。
ハレア家会話苦手筆頭はママなのである。
「ほらもうお母さん。いい年していつまでも脱ぎっぱなしなんてみっともない。早く着がえて部屋に帰りましょ?」
「あらごめんなさい。それじゃかわいらしいお嬢さん達もゆっくり楽しんでね〜」
会話を終えてそれぞれの行動に戻る。
2人の視線が自分から外れたことを確認して、ラファも服を脱ぎ始める。
「むふふ」
「…なに?」
「お姉様に何かいうことがあるんじゃない?」
「……いい年していつまでも脱ぎっぱなしなんてみっともない。早く風呂に入ってきたら?」
「ねえかわいくない!!」
「はいはい。ありがとねアーニャちゃん」
「ぐぬぬぬぬぬ…!」
誰のために妹のフリしてやったと思ってんだ。
やっぱり妹なんてどうしようもない生き物である。
ラファなんてさっさと王都に行ってしまえばいいのだ。王都に行って寮生活になって、僕がいかにありがたい存在だったかを思い知ればいい。
そのヤミア先生とやらとの2人暮らしの時は大丈夫かもしれないが、きっと同い年の子との寮生活が始まればラファは苦労するだろう。そうなったときに思い知るのだ。
来年の4月にはお姉ちゃんへの愛の手紙が毎週送られてきてもおかしくないのである。
……実はアーニャちゃん呼びにキュンときたことは内緒である。
――――
星空の下、湯気が立ち込める岩の浴槽。
3グループほどいる先客は見事に全て2人組。はっきりとは見えないが、シルエット的におそらくカップルか夫婦だろう。
浴槽は屋内と比べると少々小ぶりだが、入浴している4グループが隣り合わない程度の広さはある。
足元を照らすのは屋内から漏れ出した光と、埋め込まれた魔石、それから月の光だけである。
他のグループの人なんてはっきりとは見えないほどの暗闇。これだけ暗ければ混浴なんてそれほど気にする必要もない。
誰も付き合ってくれないかと思ったが、意外にも2人とも露天風呂についてきてくれた。何も言わなかったが、2人も興味はあったのかもしれない。
「本当に綺麗な空ね」
「ガポル村もそこそこ綺麗なんだけどね」
「それでも山の上には敵わないわね」
「そうなってくるとうちの村の取り柄って何?」
「んー何もないのもいいんじゃないかしら?どこに行っても感動できるでしょ?」
「流石ママ。素敵な考え方だね」
普段何もないからこそ、どこに行っても感動できる。
なるほど確かに。
ミシト町に住んる人が、ガポル村に行ってみようものなら退屈で死んでしまうだろう。
観光地を楽しめるのは、観光地が自分の住む土地よりも面白いと感じるからなのだ。これは盲点だったのである。
「でも案外他のとこから来た人ならうちの村もそんなに悪くないんじゃない?身近な素敵なものって見落としがちでしょ」
僕とママの間に挟まったラファが口を開く。
ラファが積極的に会話に入ってきてくれるのは珍しい。
「確かに。毎日ミシト町に住んでたら星空なんていちいち見ないかもしれないしね」
「そう。クラスのみんなに姉さんのこと羨ましがられるけど、私からしたら何とも思わないのと同じ」
「ほほう。つまりラファは私が客観的に見たら良いものだと思ってるってこと?」
「主観的に見たらそれほど良くもないのにね」
「こんなにいいお姉ちゃんなのに?ねえママ?」
「ねえ」
「……まあ、悪くはないんじゃない?いないよりはマシ」
「こんな時くらい素直になったらいいのに。ねえアーニャ」
「ねえ」
いらないと思われているより随分マシなのだが、それでも今日くらいお世辞でも『姉さんがいてくれてよかった』とか言って欲しいものである。
…いや『いないよりマシ』って『いてくれてよかった』とほとんど同じ意味じゃないだろうか。
というよりそういうことでしかないだろう。
なんだ。ラファは存外僕のことが好きだったのか。
「…なにニヤニヤしてんの?」
「ラファは私のこと大好きなんだなって」
「は?大好きではないから」
「でも嫌いでもないんでしょ?」
「こういうところは嫌い」
「総合的には?」
「母さん、姉さんを黙らせて」
「えー、ラファはママのことも好き?」
「………はぁ」
左右からグイグイ迫り来る母と姉に嫌気がさしたラファは、浴槽に手をかけて出て行こうとする。
「………」
が、手を下ろして元の姿勢に戻る。
今日は完全にツンデレのデレの日のようだ。顔がほんのり赤く見えるのは、見間違えでも上気せているからでもない。これは間違いなく照れているのだ。
「……嫌いだったら一緒にお風呂なんか入らないし、一緒の布団で寝たりしないし、こうして話したりなんてしないから」
「うんうん」
口角が上がるのを必死で抑えてラファの言葉に耳を傾ける。ラファ越しに見えるママは花に水をあげる時くらい穏やかな顔でラファを見ている。
いかん。顔を真っ赤にしながら早口で喋るラファを見てるとどうしてもニヤけてしまう。このタイミングでにやけてしまったらラファは喋るのをやめてしまうだろう。
「一回しか言わないから。私だって姉さんのことも母さんのことも好きだよ。大切にしてくれてることはすごくわかるし、私も大切だと思ってるし、それに……」
言葉に詰まったラファが俯く。
恥ずかしさが限界に達したのだろう。
「…それに?」
だが追求はさせてもらう。一回しか言わないのなら最後までちゃんと聞きたいのである。
「……私だって…家を出るのは、寂しいよ…」
やっと本音をこぼしてくれたラファを抱きしめる。
向かい側からママの手が僕の肩にふれる。ママもラファを抱きしめているのだろう。
1人でいるのが好きだし、ツンツンしているし、しっかり者だし、美人だし、運動もできて勉強もできて、天鱗学園の先生にも認められて、背だって僕より高いけど、ラファはまだ小学6年生のかわいいかわいい妹。
「それに、やっぱり不安だよ。上手くやっていけるのか、ちゃんと授業についていけるのか……本当はイジメられるのだって少しは…怖いよ…」
腕の中で震えるラファは、溜め込んでいた本音を全て吐き出す。『イジメられるのなんて怖くない』なんてことが強がりだというのはとっくに気が付いていた。
入学試験初日のラファを思い出す。
年相応に震えていたラファ。なのに僕とママはそれ以上に震えてひと言も声をかけられなかった。
でも今は違う。
あの時かけられなかった分を取り戻すように、姉として掛けられる全ての声をかけてあげたい。
「辛くなったらいつでも帰ってきていいからね。帰ってきたくないけど辛かったら私のこと呼びつけてくれていいから」
「…姉さんを呼びつけたらどうなるの?」
「話を聞いてあげられるし、こうやって抱きしめてあげられるし、なんならイジメっ子達全員闇討ちしてあげられるよ」
「姉さんを呼びつけるのはやめとこうかな」
なんでよ。
「じゃあママを呼んでくれてもいいからね」
「母さんは何してくれるの?」
「そうね―。話を聞いてあげられるし、こうして抱きしめてあげられるし、美味しいご飯を作ったり、好きなものを買ってあげられるわよ」
「…母さんにしておこうかな」
「なんでよ」
「姉さんはなんか怖いから」
なんでよ。
「大丈夫。アーニャが変なことしないようにママが見張っておくから。会いたくなったら手紙を頂戴ね。2人ですぐにラファのところに行くから。遠慮なんてしちゃダメよ?今日みたいにちゃんと私達には全部話をしてね?」
「…うん」
「ふふ、約束ね?」
「うん」
結局僕の言いたかったことのほとんどはママに言われてしまった。他人とは喋れないくせにいいとこ取りなのである。
まあでもこれが一番いいかもしれない。
もしかすると姉には話せないけど、ママになら話せることだってあるだろう。
ラファの中の僕は少し立派過ぎる。
本当は僕なんて大したことない人間なのだが、ラファのイメージではそうではないのだろう。
これはトゥリーや他の子達にも言える。
僕は精神的に周りより年齢が上なだけで、それほど大した人間でもないというのが事実なのだが、そんなことは誰も知らないのである。
「さ、そろそろ上がりましょうか。今日のお夕飯はなにかしら?」
「いろんなところ食べに行ったけどここの料理はトップレベルに美味しかったよね」
「ね!ママもう腹ペコ」
「ん…2人とも離れて」
3人で浴槽から上がり、手を繋いで脱衣所へと戻る。
誰から繋いだかは定かではないが、きっと3人とも同じ気持ちだったのだろう。
屋内の大浴槽には新たな客が数名いたが、ラファは恥ずかしがらずに僕たちと手を繋いだままでいてくれた。
頭に巻いていたタオルを解いて体を拭く。
脱衣所に上がる前に余分な水分を落とすのはマナーなのである。
「髪、切ろうかな」
濡れた髪を見ながらラファがぽつりとこぼす。
髪型にこだわりがあるタイプではなさそうなのだが、ここまで伸ばし続けた髪を切るのには何かしらかの理由がありそうなものだ。
「乾かすのめんどくさい?」
「ま、そんな感じ」
「なにそれ」
「さあね」
「じゃあ私も切ろうかな」
「姉さんは長い方が似合ってるよ」
「えーそう?実は短い方が好きなんだけど」
「絶対長い方がかわいい」
「そうかなぁ?……え、今ラファ私のことかわいいって言った?」
「さあね」
僕たちを置いてさっさと脱衣所に戻る。
1番髪の長いラファは乾かすのにも時間がかかるのだ。
ツンデレのデレは終わりツンへと戻る。
安心と言えば安心なのだが、残念と言えば残念。
まあこれでこそ僕の妹なのである。
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「雪、積もりそうだね」
歯磨きを終えてからベランダに出る。
今夜は雪が降っていて、凍えるほどの寒さである。
トールマリス王国の雪は珍しくないが、ミシト町で見る雪はまた違った味わいがある。気分はスノードームの中なのである。
「馬車大丈夫かしら」
「雪の対策はしっかりされてるから大丈夫だってレイラさんが言ってたよ」
「そうなのね」
今日はママも外に出ている。
3人ともコートとマフラーまで装備して、防寒対策はバッチリである。ただ太ももから下は剥き出し。凍りつきそうである。
「このパジャマ足寒すぎ」
「ラファは脂肪がなさすぎなんだよ」
「姉さんは全部脂肪だもんね」
「これでもめちゃくちゃ足が細いで有名なんだけど」
「骨が細いお陰でしょ。もう少しくらい筋肉もつけたら?」
「うーん。まあ考えとくよ」
お揃いのパジャマなのでラファの足も剥き出し。
美脚姉妹だが、シルエットはラファの方が美しい。
確かに僕ももう少しくらい筋肉をつけた方がいいのかもしれないのである。
「ラファもご飯ちゃんと食べるんだよ」
「美味しくなくても残しちゃダメよ?」
ラファはたくさん食べるタイプなのだが、環境が変わってもそのままなのかはわからない。ストレスで食べられなくなるかもしれないし、ご飯が美味しくなくて食べられなくなるかもしれない。
「残さないから」
呆れたように笑い、ラファは右手に持ったティーカップを両手で包み込むように持ち直す。
それを見た僕も、同じようにティーカップを持つ。
中に入っているのはティーではなくコーヒーだが。
缶コーヒーと違って持ちにくいが、冬場はやっぱり温かい飲み物で手を温めるに限る。ちなみに僕は寝る前にコーヒーを飲んでも気にしないタイプなのである。
じんわりと掌から伝わる暖かさは、少しずつ全身へと伝わっていく。足と顔と耳を除けば、それなりにぽかぽかである。
蛍の光 窓の雪。
屋根も道路も真っ白に染まり、月明かりが反射してやけに明るく見える。
いかんせん蛍の光で足りるかには疑念が残るが、蛍雪之功とはこういうことだったのだろう。
雪が降っているだけで、行きに来た時とは景色が違う。たった1週間で季節がまるで変わってしまったのである。
あと2週間が経つ頃にはまた見える景色が変わるのだろう。