過去からの亡霊②
出発を知らせる軽やかな音楽が鳴り止む寸前、俊葵は車外に飛び出していた。
ガタン、プシューッ、
背後で電車のドアが閉まり、フワリと電車が動き出した。
勢い余ってコンクリートの地面に、強か両手両膝をぶつけた俊葵は、車体が目の端から消えたのと同時に、痛む掌に力を込めて上半身を起こした。
膝を動かしてみて、皮膚は痛むが骨や筋肉に異常はないようだと確かめる。きっと後でひどい青痣になる事だろう。
一緒に降りた乗客達が俊葵を迂回して流れていく。つんのめったままの俊葵をジロジロ見る者。俊葵に気付いても明らかに無視していく者。それぞれに階段やエスカレーターに吸い込まれていった。
「大丈夫ですか?」
遠くから駅員が駆けつけてきて、掌を眺め回している俊葵に声をかけた。
「何かあったんですか?あ、怪我されたんですね。」
「いえ、何にも…急に足に力が入らなくなって転んでしまいましてね、」
俊葵は貼り付けた笑顔を見せた。
そして、自宅に怪我の手当てをする資材が何も無いのを思い出すと、
「傷の手当てだけ、お願いできますか?」
と言って、差し出された駅員の手を借りて立ち上がった。
俊葵は、関係者以外立ち入り禁止のドアの向こうに連れて行かれ、救急箱を取って来るから待っててくれと、男所帯の職場独特の脂臭い空気が充満する中で、簡素なスツールを勧められた。
そこは、事務用の机とロッカーと、とにかく駅の職員が働くための機能が一つ空間に集中している部屋だった。
ーーもっと大きな駅なら、医務室や事務所が分かれているのだろう。いやこの駅舎自体が古いし、駅の規模とかいう問題でもないのかも知れないーー
そんな事を取り留めなく考えながら周りをザッと見回していた俊葵の目は、いくつもの防犯カメラの映像を映し出しているモニターに釘付けになった。
ーーこの男・・・ーー
人足が途切れたタイミングの、どのモニターにも人があまり写っていないコンコース内で、サラリーマン風の男が、時折改札口を伺っているような挙動は一種異様だ。
車内では合わせ鏡のようになったガラス越しだったし、はっきりとその風貌を把握できていたわけではなかったが、俊葵の警報は激しく反応していた。
ーー間違いない。改札の外、柱の陰に隠れるようにして立っているこの男は、俺を背中越しに観察していたあの男だーー
俊葵は立ち上がった。
その瞬間、あの駅員が救急箱を持って現れる。
「お待たせして、」
「あ、いえ…」
仕方なく俊葵はスツールに座り直した。
駅員は、俊葵の手を取り傷の具合を確かめると、救急箱の中から薬やサージカルテープの箱を取り出し、無駄のない手付きで、消毒薬を吹き付け、ガーゼを当て、テープをペタリと貼ってくれた。
「はい!」
「ありがとうございました。」
俊葵が頭を下げると、
「本当に、トラブルじゃないんですよね?」
駅員が顔を覗き込んだ。
「ええ。こう見えて運動神経鈍くて…」
俊葵が頭を掻くと、
「それでこの身長?羨ましいなぁ、俺子供の頃から野球やってきたけどこれ止まりですよ。」
と言って駅員は、風真ほどの背丈から俊葵を見上げた。
ペコペコと頭を下げ合い、事務室を出ると、俊葵は反対側のホームへ移るべく、階段を上がっていった。
この駅は俊葵の自宅の最寄り駅ではない。
その改札口で待ち伏せているという事は、俊葵の自宅を知らないという判断で間違いない。しかし、追尾者は一人とは限らず、この駅の改札さえ出なければ済むという簡単な問題でもないだろう。そのまま同じ方向の電車に乗ってしまったら、今度こそ自宅を突き止められてしまいかねない。
そこで俊葵は、今来た路線を逆戻りする事に決めたのだった。
俊葵は念のため、大幅にルートを遡り、そこから私鉄で数駅、さらにタクシーを使って、父親の糺が上京する際の定宿にしているホテルに向かった。
ここはかつて、祖父の橋本 幸一も贔屓にしていたホテルで、俊葵も顔が効く。
普段はVIP扱いを嫌う俊葵だが、誰に追い回されているのかがはっきりとしない上に、光生の問題に関わり始めた関係上、セキュリティーには万全を期してくれるこのホテルを頼るしかないと思ったのだ。
フロントで名前を告げ、支配人に電話をしてもらう。
幸いにも支配人は就業中だった。
「戒田様。いらっしゃいませ。帰国されている事はお父様からお聞きしていたのですが、」
「ご無沙汰しています。部屋はありますか?」
「ご用意させています。」
「ありがたい。」
「お一人ですか?」
「ええ、まあ…」
俊葵の濁した言葉尻に、支配人は遠慮がちに言葉を繋いだ。
「何かお困りの事でも?」
「はい、少々…」
支配人は、フロントの年嵩の男性に目配せすると、
「こちらへ…」
フロントの傍のドアへと俊葵を誘った。