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風を感じるために生まれた  作者: 新井 逢心 (あらい あいみ)
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過去からの亡霊①

チャンピオン自身も祝勝会の会場に向かったようだ。ドアの向こうは、シンと静まり返っている。

俊葵の計画に熱心に耳を傾けている前橋のポケットで、再度携帯電話が震え始めた。


「前橋さん。もう行って下さい。後援会長が遅刻とあってはパーティーも盛り上がらないでしょう。」

そう言って俊葵は膝をつき合わせるようにしていていた姿勢を正した。


「済まんな…」

前橋は苦笑いしながら携帯を出し、

「すぐ出る。楽屋口に付けてくれ。」

と言うとポケットにしまった。


「向こうはチャンピオンさえ居りゃいいんだがな…

しかし、予定通りに行動するって点は重要だな。こっちが尾行に気付いてると向こうに悟らせないためにもな、」


「確かに、」

俊葵は深く頷いた。


楽屋口のドアから前橋を見送ると、俊葵は一般の出入り口がある一階に上って行った。

すると、正面玄関前の灯りは消えていて、試しに重いガラス戸を引いてみたが既に施錠されていて開かない。


しばらくするとバタバタと複数の足音が聞こえてきた。


ーーヤベ…ーー


どうやら俊葵は警報を作動させてしまったらしい。

前橋に慎重な行動をと話したばかりで、この体たらく…

俊葵は苦笑いして長く伸びた前髪をかき上げた。


「あー…」


やって来た制服姿の二人のうち若い方が口を開いた。

「あ…あ、あーゆーすぴーくじゃぱにーず?」


心底ホッとした俊葵だが、それをおくびにも出さず、

「ア、スコシ、」

わざと辿々しく言って、困ったように肩を竦めた。


「おお、」

警備員はホッとしたように顔を見合わせた。


俊葵はチケットの半券を取り出し、片手は腹を押さえ、

「バスルームイマシタゴメンナサイ。」

と言って、ぺこりと頭を下げた。


二人はうんうんと頷いた。


「あー、腹痛だったんだね。それで締め出されちゃったんだ。もう大丈夫かい?」

と、年嵩の方が言って、手招きをする。


俊葵は首を傾げて見せた。


年嵩の警備員は玄関を指差し、手招きをながら、

「ろっく。ここはろっくしたんだよ。別の…えん、えんとらんすから出てもらうから、こっちこっち…」

先立って歩き始めた。

若い方はどうぞと手を差し伸べる。

俊葵は、’thanks’と微笑んだ。

どうやら騒ぎにはならず外に出られそうだ。


「ねね、主任、出口はエントランスじゃなくて、イグジットじゃなかったですっけ?」

「あー、あのお笑いコンビの名前、そういう意味なのか、あいつら面白いよなー、」


安堵した俊葵は、二人の間に挟まれて歩きながら、そのほのぼのとした会話に反応しないように苦心しなければならなかった。


「気をつけて行きなよ。じゃ。」

「ハイ、ドモアリガト、」

「はいはい、」


「主任、俺見回りした時トイレには誰もいなかったっす。間違いないっす、だから報告…」

「わかってるよ…」


パタン、


フゥー、

俊葵は大きく息を吐き、最寄りの駅に向かって歩き始めた。

スマホを取り出し時計を見る。込み入った頼み事をするには些か遅すぎるか。


「明日にするか、」


ちょうどホームに入って来た車両に乗り込む。

座席が全て埋まっているというほどでもないが、立っている方が好きな俊葵は、ドアに身体を寄せるようにして外を眺め始めた。


前橋を訪ねた、その一連の遣り取りに思いを馳せると、今更ながらに、旧知の前橋の孫が畠山で、畠山の友人が風真であるという巡り合わせに驚く。

もし、畠山が日本に帰国せず、ヨーロッパに留まっていたらどうなっていたのだろうか、

前橋が言うように、母親や祖母を頼って九州に向かっていたとしたら…


その物思いはいつの間にか、自分の身の上の()()()にすり替わっていった。

バイト先に警察官がやって来たあの時、連絡を取ったのが戒田のお父さんではなく、橋本幸一(祖父さん)だったら…


俊葵は、一瞬一瞬一瞬の選択が今の自分を作ってきたのだと思わずにはいられなかった。

光生がとっさに身を寄せたのが俊葵の家だったという選択は、俊葵が考えているよりもずっと大きな事なのかも知れない…



二つ三つと駅に停車する度に車内は混んできた。

ドアの前、俊葵の並びにも、呑み帰りだろうか男が三人親しげに会話しながら吊り革を掴んでいる。

俊葵は、窓の外に何かを探している振りで、ガラスに映る車内の様子を見ていた。

先程から背中越しの視線をこちらへ注いでいる男がいる事には気付いている。

ボクシング会場を出る時から尾行には注意を払っていたから気付いたのだが、その素振りは実にさり気なく、訓練を積んだプロだと思われた。

俊葵は次の駅で降りるべく身構えた。


電車がスピードを落としていく。

降車の準備に立ち上がった乗客の後に座席を見つけた飲み帰りの三人が場所を移動し、俊葵の側がガランと空いた。

俊葵が体重を前に移動させようとしたその時、


「失礼ですが、俳優さん?」


俊葵の目線よりわずかに低い位置から、少し甲高い声が聞こえてきた。

曖昧に笑って俊葵が一歩踏み出そうとすると、ちょうど停車直前の大きな揺れが来て、バランスを崩したその男が、俊葵の前に飛び出した。


「あ。ごめんなさい。」「いえ、」

一拍遅れたせいで、開いたドアから人が乗ってきてしまった。

舌打ちをどうにか堪える。


「いやぁ、あんまりカッコいいから、声掛けちゃいました。すみません。」

「いえ…」

俊葵は再び閉まったドアガラスに、視線を送る男を探した。


ーーいない…ーー


「本当に俳優さんじゃないの?勿体無いなぁ〜今からでもやればいいのに、」

隣の男は尚も話し続ける。


「そんな…柄じゃないです。」


どういう訳だか時々、容姿を褒めそやしながら近づいてくる者に出会でくわす。普段なら無視を決め込む俊葵が、この時ばかりは返事を返してしまった。ずっと向けられていた不躾な視線が無くなってホッとした心の隙に、男の言葉が入り込んでしまったかのようだ。


俊葵はジロリと横目を向ける。

まず、吊り革を掴む長袖のカフス部分から覗く手首のわずかな部分に、ケロイド状の皮膚を見つけた。

さっと目を背ける事に成功して、男の顔を見る。

腕の良い職人が作った雛人形の本練頭ほんねりかしらのようにピンと張った皮膚には、皺やシミのようなものは一つも見当たらない。瞼はくっきりとした二重で、言ってみれば、西洋風のお内裏様といった具合だ。


俊葵が観察を始めたのが分かったのか、男は微笑み、俊葵を見上げる。

伸びた首の、襟に隠れていた部分にもケロイドが覗くのに気が付いた。


「あなたこそ、芸能人みたいに見えますけど、」

俊葵が窓の方を向いたまま言うと、


男は、夜の闇を裏打ちした鏡の中で妖艶な笑みを浮かべた。


「ふふ、棒読み…お世辞が下手ですねぇ、

日本語が話せない演技はあんなにお上手だったのに、」


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