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風を感じるために生まれた  作者: 新井 逢心 (あらい あいみ)
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親切は人のためならず⑥

シュッ、

ゴフッ、

バチッ、

グッ、


初めて生で聞く殴り合いの音は、思いの外地味だった。


かつて俊葵は、ロンドンの、とあるゲイタウンに暮らしていた。

世間の偏見の皺寄せか、酒が入るとそこかしこで罵声や、蹴倒されたガベージカンやストアーサインの転がる音が至る所で聞かれていたし、相手を取っただ取られただ、そんな痴話喧嘩が殴り合いに発展することもあった。

俊葵は大抵、現場にいたが、その場面を喧嘩に巻き込まれずしてファインダーに収めるにはどうしたらいいかを模索するのに夢中で、場に満ちていたはずのこの音を取りこぼしていたらしい。


目の前の拳のやり取りは一進一退を繰り返していた。

日本人選手の白いトランクスにはいつのまにか血が点々と付いている。

相手の褐色の肌の選手の、横に張っている頬骨に上の皮膚は大きく腫れ、目蓋も怪談に出てきそうな形相だ。

そういう意味では日本人選手も負けてはいない。先程まで血が流れていたた眉上の大きな傷は、特殊メイクの様に赤黒い断面をのぞかせている。


もう何度目かのゴングが鳴り、ため息とも怒号とも付かない声がさらに高まった。

選手はそれぞれがそれぞれのコーナーに帰り、据えられたパイプ椅子の上にどっかりと腰を下ろした。

俊葵の隣に座っている二人組の男性は相当のボクシング好きと見えて、ゴングがなるたびに、あのラウンドは日本人選手の方がポイントが高かっただの、このラウンドはイーブンだのと、頭をくっ付ける様にして批評し合っている。


俊葵は、汗で光る白いフロアマットすれすれに見えるはずの顔を探した。

俊葵の目線が周囲から10㎝は高い所にあるたせいか、その顔はすぐに見つかった。

あちらも俊葵の視線に気が付き、目が合うと一瞬目を見開いたが、すぐに不敵な笑みにすり替える。


試合のインターバルの後、ずっと空席だった二人組の反対側の席に、男が一人座った。

上質なサマーウールのグレーのスーツにピンクのプリーツネクタイを締めている洒落者だ。やっと仕事を終えて駆けつけた格闘技フリークってところか、そんなストーリーを勝手にこじ付けると、目当ての人物に当たりをつけた気安さか、俊葵は試合を楽しみ始めた。


トントン、

軽く肩を叩かれた気がして振り向きかけると、そのピンクネクタイがさり気なく体を寄せている。

「ポケットの中見て下さい。じゃ、」

と耳元で囁いた。


ちょうどその時、どちらかの拳がヒットしたのか大きな歓声が上がり、反射的にリングを見上げた。次に隣の席に目を向けた時には既にピンクネクタイの姿はなかった。

俊葵は男に言われた通りに、ジャケットのフラップをめくる。手を突っ込むと小さな紙片が入っていた。


【試合後、真後ろの出口を出て左手の階段を下りて下さい。ジム名入りのジャージを着た男が待っています。その男の指示に従って下さい。】



素っ気ないクリーム色のドアの先は六畳ほどの部屋があった。横長の明かり取り窓が天井ギリギリの高さにあって、夜の闇を切り取っている。部屋の真ん中で目的の渋面を見つけた。


「随分と色っぽい密会場所を思い付いたものですね。」

この顔を見ると何かひねりを効かせたことを言わなければいけない気にさせられるのが不思議だ。


「その口調、橋本先生そのものだな。橋本先生の地盤を継ぐのは君しかいないと儂は今でも思ってるんだがな、」

そう言うと、前橋会長はニヤリと笑った。


指示通りジャージの男に付いてやって来たのがこの部屋というわけだが、

ドアを開けた途端、新チャンピオンとなった日本人選手が居たのにはさすがの俊葵も面喰らった。

この部屋が、選手の控え室だとすると、俊葵の反応はとんでもなくおかしいはずだ。しかしこの部屋に溢れ返る、人人人は皆、新チャンピオンに夢中で、俊葵の様子ばかりか、俊葵が入ってきた事にさえ気に留める様子がない。

それこそが、密会場所にここを選んだ理由なのだろう。


立ち上がり、握手を求めてきた前橋会長の右手を握り返す。キャラクターの割に柔らかく温かい手だ。

勧められたパイプ椅子に座り、面会を求めた理由を説明しようと口を開いた俊葵を制するように、会長が口火を切った。


「儂はこのジムの会長と懇意でね。二、三時間ならこの場所を貸してもらえる。

ところで、君が連絡をくれたのは、儂が今抱えている厄介事に関わりがあると考えてもいいのかね?」



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