子供の知らない大人
娼館の噂は上々で人通りは多く、人が増えるごとに村を襲う山賊や魔物が減り、ごろつきは増えた。
ごろつき達は徒党を組み、新たな娼館を作ったり、悪巧みしたりする。
娼館で働くアザエルやアザゼルと一緒になりたいと言ってくる人もいる。
いくら出せばいいとか、連れ出そうとしたり、勧誘したりする。
どちらもエーテリカの言う事しか聞かないので、問題はないけれど、ぼくを攫おうとする人もいる。
アザゼルとアザエルは朝から晩まで何十人も相手をして、数とお金を増やしていった。
たまに大丈夫なのだろうかと思うけれど、二種はぼくに会ってもにっこり笑みを浮かべるだけだった。
どちらも虫の集合体だけど……。
宗教の人も来た。
一番多いのは女神を崇めるエリューズニール。
有名な神様は三人いて、この三人を崇める三つの宗教がある。
布教しに来る。
あんまり粗相を働く人はいない。
エリューズニール教会の人は聖騎士とか騎士聖女とか呼ばれてる。
旗を持っていて、世界を浄化すると言っていた。
なんでも教徒になると、身体能力の向上、再生能力、火の剣を持てるようになると言っていた。
火の剣とは文字通り熱を持った剣で魔物を打ち滅ぼす力がある。
教徒は剣と旗を持って戦う。
あと魔術機関がある。
この街にも拠点を作りたいと言っていて、エーテリカは承諾していた。
魔術師という人々。透明な丸いポットの付いた杖を持っていて、ポットの中には黒い液体が入っている。
二つは世界を二分するほどの勢力を持っているみたいで、教会は白と黄色、魔女は赤と黒を基調としていた。
「貴方はいつも炎に焼かれているみたいね」
エーテリカにそう言われて頭に疑問が浮かんだ。
「別に、炎になんて焼かれてないけど……」
「いつも苦しそうって意味よ」
「そんなことない、と思うけど」
「そうかしら」
何か悲しい事があれば心はいつも焼かれているように痛んだ。
魔物を殺す話も、人が死ぬ話も、聞いてると胸が痛くなる。
魔物と戦う人が入れば、殺される魔物も人もいるという事が容易に想像できる。
エーテリカの顔は楽しそうに歪んでいたからだ。
教会と機関は国や街、人々の依頼を受けこなし、勢力を増す。
医術を主として発達してきたのが教会で、魔物を狩る事に特化してきたのが機関のようだ。
魔物を倒すと言われても、できる気がしない。
実感が持てなかった。
逃げる夢に良く似た感覚がある。
逃げようとしても逃げられない。あの焦りに良く似ていた。
教会に所属して人々を癒しながら生活するのには少し憧れた。
でもぼくには剣で魔物を倒すというのがおそらく無理だ。
エーテリカに背後から抱きしめられていた。
エーテリカが揺らすので体が左右にゆらゆら揺れている。
家の庭を一緒に歩いていた。
何をするわけでもなく、一緒に歩幅を合わせて、歩いている。
エーテリカが支えてくれていて、歩くのを補助してくれるので、ぼくはいくら歩いても疲れなかった。
「眠亭の月はねぇ、孕み月なのよ。蜜月とも呼ばれているわ。パートナーと二人、貯えを消費しながら七日間籠り交わり続け、豊穣の月に子供を産むの」
言っている事は割とセンシティブだけど、こうして二人で歩いていると親子のような姉弟のようなそんな感じがした。
姉がいるってこんな感じなのだろうか。
なんだか心が温かくて、ふわふわして、幸せだと思う。あんまり温かくて眠くもなる。
ふにゃふにゃして何もできない。
外は雪があって寒いのに、エーテリカに触れていると温かいのだ。
「眠くなっちゃったのねぇ」
家の中に連れていかれると蜂蜜の匂いがした。
木でできたベンチに座ると誘導するように横にされる。頭がエーテリカの膝の上にぽてりと乗って、モモの熱が頬だけじゃなくて頭全体を包み込む。
エーテリカの手がぼくの耳を柔らかく擦る。
轟轟とした音がして、エーテリカの指が耳の溝をなぞるたびにあまりの気持ちよさに失神しかける。
一瞬意識を失い、はっと目を覚ます。頬に触れたり、頭を撫でたり、口元に触れたり……。
耳の穴に指が入ってきて、こそばゆくかきまわす。
「眠ってしまえばいいのに……」
抗っているわけじゃない。
頭に手が回り、体を持ち上げられ膝の上に座らせられる。
エーテリカは小学生ぐらいの身長だ。
包まれて柔らかくて肌触りのいい上着に頬が埋もれる。
「彼女を連れてきた方が……彼女は幸せになったんじゃ」
思わずそう口走ってしまった。
少女は交代しなくとも、エーテリカと一緒にいれば幸せだったのではないかと。
エーテリカは答えなかった――頬を寄せてきて、頬擦りがあんまりにも気持ち良くて、温かくて、幸せで……でもそれはエーテリカが努力して、ぼくが今感じている結果でしかなくて。
それが悲しくて、切ない。
五歳になった。
だいぶ体が出来上がった。でもまだ頭が重い。
髪が長くなった。あっという間だった。
本当に一年たったのか不安になるほどに。どうやらエーテリカに操作されているらしい。
時間ではなくぼくの意識を、だ。
それがわかったからと言ってぼくには抗うすべがない。
漫画やアニメで神殺しなんて言うけれど、エーテリカを見ていると人が神を殺す事は不可能に感じた。
ステージが違いすぎる。
物理的に殺す事が不可能なのだ。
村は人が増えたけれど、ぼくには人々を覚えられそうもなかった。
アザゼルとアザエルは口では言い表せられないほど増えた。
村人の大半は彼女たちと言っても過言ではない、と思う……。
彼女たちはぼくを見るとにっこりと笑うのですぐにわかる。
ぼくに触れようとするのですぐにわかる。
村の中を歩けば、どの人もぼくを見てほほ笑むからだ。
エーテリカは相変わらず実験に夢中だ。
最近オーグリンという魔物を生み出した。
オークとコボルトのハーフで、本来産まれるはずのない子だって言っていた。
顔は狼なのにブタッ鼻でずんぐりとし体躯、二足歩行で足の裏には肉球がある。
手の指は三本。
家の中で椅子に座っていると寄ってきて膝の上に乗る。撫でると気持ちよさそうにする。
「気に入った?」
エーテリカが傍に来て、ぼくの頭を撫でた。
ぼくの髪はエーテリカが切ってくれている――前髪は眉まで、後ろ髪は編み込んでいる。
テーブルの上には朝食があった。
スクランブルエッグとブロッコリーを煮た物。
朝食で一番好きなのはかぼちゃのスープだ。
毎日出る。
このスープが大好きで朝が来るのが待ち遠しい。
お腹がいっぱいになるまでおかわりしてしまう。
「まーりーあ‼」
玄関のドアを叩き、大きな声が響いた。
椅子に座ったままエーテリカを見上げると、エーテリカは笑みを浮かべてぼくの口を拭いてくれた。
「いっていい?」
「言わなくても行くんじゃない?」
「エーテリカが行くなって言うなら行かない」
「ふふふっ。いい答え。あんまり危険なマネをしてはだめよ」
「そういうとなんだか親みたいだね」
「そういう減らず口はかわいくなーい」
ドアを開けると女の子が立っていた。
ウィヴィー。
五年も村にいると、顔見知りの行商も増える。
ウィヴィーは行商の娘だ。
ブロンド、青目、褐色肌の女の子でハーフビースト。
ハーフビーストは獣人と人間のハーフ。
顔、人間、八重歯、目は大きく、瞳が動物みたい。
耳が獣っぽい。
尻尾はヒョウ柄、撫でたい。
エーテリカと鬼ごっこをしている時に混ざって来た。コミュ力が高い。ぼくとは違う。
「あそぼ!? マリアあそぼ!?」
人懐っこい。あんまり傍に来られると困る。
「お昼には一回帰ってきなさいね」
「うん」
ウィヴィーは大きくなったら美人になりそうだと素直に思った。
良く真面目な生徒会長の女の子と不良の男の子が恋愛をするべたな話があるけれど、金髪の生徒会長と容姿は清楚なのに不良な女生徒はいないのかなと思う。
振り返りドアを見る――エーテリカが見えなくなると、ふと不安になる。
帰ってきたら、エーテリカがいない気がして、怖くなる――思わず首にかけたドアのカギを握ってしまって……馬鹿だなぼくは、甘えてる自分を律するように前を向いた。
「どうしたの?」
「ううん……なんでもない」
前をウィヴィーが歩いている――軽快にスキップを踏むように。
ウィヴィーの下半身はオレンジと黄色の毛で覆われていた。
だからウィヴィーはズボンをはいていない。
足は虎の足のようで爪も鋭く、靴も履かない。
人は苦手、男の子でも女の子でも苦手だ。
ウィヴィーが顔を覗き込んでくる。
「どうしたの? マリア?」
「ううん、どうもしない、よ?」
どう接したらいいのか、子供とどう接したらいいのか。
「マリアって甘い匂いがするね」
ウィヴィーの顔が近い。ウィヴィーは良く干した藁のような匂いがした。
「ねぇねぇ今日は何する?」
腕を掴まれる。子供って柔らかい。
人に触れるのは気持ち良い。
触ってもいいかな。
恐る恐る耳に手を伸ばす。
ウィヴィーは片目を閉じて気持ちよさそうに笑った。
大丈夫そう……毛が柔らかい。
本当に耳が生えている。
思わず耳に顔を近づけて匂いを嗅いでしまった。
「スンスンッ。スンスン」
片栗粉みたいな匂いがする。
「なんで耳の匂いかぐのー?」
「ごめん、嫌だった?」
「嫌じゃないけど……はずかしいよぉ」
「ごめんね」
「えへへっ変なマリア。私もマリアの耳の匂い嗅ぐー。嗅ぐごっこだね‼」
村の中にある建物の横に掴まれていた木箱の上に乗った。
今日は晴れ、空は青く、日差しは眩しかった。
雨の方が好き。
雨の日は家の中で窓辺に座り、ずっと雨を眺めている。
「ふんふん、ふんふん。マリアの耳の匂いがするー」
耳に湿った感触がした。
ウィヴィーの鼻が耳に触れている。
耳掃除はエーテリカにしてもらっているから、汚れはないはず。
「マリアの耳の味がするー。変な味―」
「汚いよ?」
「なんで?」
そう言われると困る。舐められたし、舐めてもいいよね。
「舐めていい?」
「えっ? 耳? えー……いいよ‼」
いいんだ。
隣に座ったウィヴィーが頭を下げてくれたので、右手で耳を傷つけないように注意しながら掴んで、鼻と口を入れる。
「あははっ‼ くすぐったいよぉ‼」
自然に鼻が鳴る。
舌を少し出して耳の中を舐める。
あんまり奥に入れないように、唾液を落とさないように。舌先でチロリと舐めると味はなかった。
舌に細かな毛が付いた。
顔を背けてふっと口の中の毛を吐き出す。
右手で左耳の裏側を押さえて、口を入れて、舌で舐める。
少しざらついていて湿っている。鼻を鳴らす。
「うへへっへへっくすぐったいよぉ」
右耳に手を伸ばして、両指で挟んで擦る。
昔近所にいた犬とは全然違う。良く乾いた藁のような片栗粉みたいな、
「うぇっへへっへへへ。お返し‼」
顔を耳から離されて、耳に湿った感触。ウィヴィーの舌、ざらついてる。
Conqueror。
スンスンと耳の裏の匂いを嗅ぐ音、首元から胸元、両胸の真ん中に圧力。背中に回る手。
「ママみたいな匂い」
脇の下に鼻を突っ込まれるのはさすがに……。
猫みたい。腕に力を入れると、無理やりこじ開けるように脇に鼻を突っ込んでくる。
「だぁめぇ‼ ふんふんふんっすんすんすんすん」
近所の犬を思い出す。
野良犬だった。
小さくて、汚れていて、飼えなくて、ついてきて、捨て犬で、臭くて、撫でようとすると怯えるくせに、手で触れられると嬉しそうに身を預けてくる。
太陽と泥の匂いがした。
ウィヴィーの頭を撫でる。あの犬みたいに。
「えへ……えへへへへ」
今度はこちらの番。
耳の裏に鼻を近づけて匂いを嗅ぐ。
襟足、肩、脇の下、お腹……モモを覆う毛は柔らかくて薄くて暖かい毛布みたい。
冬は毛布が無ければ凍え死んでした。
部屋の隅で毛布に丸まって横になると寒いから体躯座りで一枚の毛布を何重にも巻いて過ごしていた。
冷めた部屋の中で吐く白い息も、冷たい部屋の空気も。
朝になるのを待つのも、数時間ごとに目を覚ますのも、あんなに辛かったのに、心の中は穏やかだった。
だからこそより鮮やかに炎が灯っている。
心の中の炎は、きっと他の誰よりも青い……はず。
何言っているのだろうぼく……。
日の出が遅く――蒼より青くなる空気の中、オレンジ色の光が昇るのを待ち続けて。
「マリアといるとママと一緒にいるみたい」
年上だから。
膝の上にウィヴィーの頭がある。
甘えるように頬をモモにこすりつけてくる。
「お耳掃除してー」
「いいよ」
ウィヴィーの家は父子家庭で二人暮らし、母親はここにいない。
父親は人間、母親は獣人。
この世界では獣人の方が人よりも強い。
この辺りには四つの国がある。
一番大きい国は獣人の国でフォールンドレイヴン。
二番目に大きいのはフォールンドレイヴンより西にあるエメラルドフォレスト。
人は獣人に分類されるけど、皆が仲良く平等でありましょうというのがエメラルドフォレスト。
三つめはエメラルドフォレストの南に位置する海に隣接した国リアンノン。
二つの国より小さいけれど、エメラルドフォレストとは同盟関係。
四つ目はフォールンドレイヴンの南に位置し、リアンノンの隣、アグエニシカ。
アグエニシカはフォールンドレイヴンに侵略された過去がある。
フォールンドレイヴンとエメラルドフォレストは停戦中。
十年前に三百年戦争が終結している。
獣人の寿命はピンからキリまであり、長寿の者なら千年生きる。
もっとも短いのは直訳するとネズミ族で約二十年。
ここはアグエニシカの山奥にある村の一つ。
アグエニシカは十年前フォールンドレイヴンに侵略され領土こそ取られなかったものの、税や食料、木材などを搾取されている。
もともと魔物の力強い土地らしく、人々がこの土地で定着して暮らすには難しい。
だから各村には定着人数があり、残りは行商になるしかない。
アグエニシカは獣人の見捨てた土地とも言われ、主に人が暮らしている。
ここまでがぼくがエーテリカから聞いた話。
時がゆっくりになった。
こんなことをするのはぼくかエーテリカしかいない。
ぼくじゃないならエーテリカだ。
ぼくがこの能力を使っても、普通にうごけないけれど、エーテリカがこの能力を使うと、ぼくは普通に動ける。
ウィヴィーの頭から膝を抜いて家に駆ける。
家のドアを開けると三人の人間がおり、エーテリカが椅子に座って考えるような仕草をしていた。
(あらおかえり)
(どうしたの?)
(あぁ、そうね。どうしようかと思って)
(どうしようかと思って?)
(この人達がね、脅しをかけてきたのよ。この村の経済状況を近くの街に伝えてもいいんだぞと言ってきたの)
(困るの?)
(困らないわ)
(じゃあなんで?)
(こういう甘い考えの連中をどうしようかと思って)
殺すのか……利用するのか、そう考えてしまって、ぼくは顔を伏せていた。
(悪魔ってさ、自らで手を下さないのが一流なのよね)
(そうなの?)
(こっちへいらっしゃい)
傍によると、抱えられエーテリカの膝の上に載せられる。
「ちょっと獣臭いわね」
「そう?」
「そうよ、臭いわ……。せっかくいい匂いにしているのに、台無しよ」
エーテリカがぼくの頭を手で払う。
「ごめんなさい」
「ふふふっ、そういうところ好きよ」
謝るとエーテリカは笑った。
「そうねぇ……思うのよね。どうせ殺すなら、最初に殺すのが慈悲だと思うのよ」
「殺すの?」
「私ね、こういう甘い考えを持ってくる人達って大嫌いなの」
「どうして?」
「自分たちが正義だと思っているのよ。例え正義でなくとも、自分達の家族の命を守るためなら他者の命もやむなしと思っているの。それが許せなくてね。もし私が貴族で、こいつらが私を脅しに来たらどうすると思う?」
「この人達の家族を皆殺しにして脅す」
「あたり、ふふふっ。どうして自分達は無事だと思うのかしら? 権力というのはそんな甘い物じゃないわ。そうね、そうしてやろうかしら」
ぼくは反対しなかった。
反対したとたんぼくは床に顔面を押し付けられて縊り殺されているのではと想像してしまう。
「そんな事しないわよ」
ぼくの考えを見透かしたのか、エーテリカはほほ笑んで頭を撫でてきた。
「ふふっ。もっとひどいことしてあげるわ」
「あんまり、ひどいのはやめて……」
ぼくはエーテリカを信用していた。
エーテリカの行いに間違いがあるとすれば、それは人間ではどうしようもない変えることのできない事実だと。
「抱きしめたくなるわね。どうして知恵の実を神様は渡さなかったのか、わかる?」
「知恵の実?」
「そうよ」
「悪巧みするから?」
「ふふふっ。当たり。猫が粗相をしたら怒る? 犬が粗相したら? 赤ちゃんが粗相したら? 怒る? 純粋だから許せるし可愛いのよ。知恵の実を渡したくないはずだわ。知恵を正しく使わず、良くない事に使うのだもの。神様は人に純粋であってほしかった。愛でられる存在であってほしかったのよ」
「よく、わからないよ……」
「そうね。さぁ、もう行きなさい」
ぼくはエーテリカの膝の上から降りて、ドアを開けて外へ。
「いなくならないでね」
「大丈夫よ」
ドアを閉める時、机の上には首のようなものが乗っていた、ような気がした。