子育てする悪魔
この世界は憎しみの具現化する世界らしい。
赤ん坊となったぼくはこの世界で生まれて、契約した悪魔、エーテリカの腕の中にいた。
契約とはつまりそういう物らしい。彼女はぼくのそばにいて、ぼくを見守る。最後の羽をあげる……。
ぼくは言葉が喋れない。顎や口がうまく動かなくて、うまく発音できない。だけれど、心の中で思うだけで、エーテリカには言葉が伝わった。
「事実は決して無くなったりしない。負の淀み、とでもいうのかしら。淀みは集まり続け、強大な悪や歪みを生む。この世界ではそういった淀みや悪が形作り魔物となるの。人間の淀みだもの、人間が恐れる形を作るわ。オーガだったりゴブリンだったりね」
何処か楽しそうに思えた。
(エーテリカ……さんは、天使なの? 悪魔なの?)
「どちらでもいいじゃない。どちらでも……怖いの?」
怖い……と不思議。君はどうしてぼくを守る。ぼくの傍にいる。
「別にいいでしょう? 私が傍にいたって。契約したでしょう。契約書は読まないのは良くないことだわ。エーテリカでいいのよ。君はあれだねぇ、表面はとても穏やかだ。表面はとても穏やかなのに、燃えるような魂を持っているねぇ……イッヒッヒッ」
引きつるような笑い方。口の端をニッと曲げて。
「ごめんなさいね。笑い声って隠せないものなのよ。本性は笑い声にでるのよね」
自分でもよくわからないけれど、自分とは関係ないと思いつつ、燃えるような怒りに囚われる事はある。
それにたまに自分では信じられないほど汚い言葉を使いそうになる。クソッとかそういう言葉だ。
腕も足も腹の筋肉も、まだまだ上手に動かない。自然に動かないのはとても苦痛だった。
例えるなら動かす事になれていない足の小指を動かそうとしているみたいに。
匂いにも敏感。特にエーテリカの匂いに敏感で、視点もエーテリカを捉えている。
エーテリカの腕の中は柔らかく、そして温かった。
エーテリカの年齢は十歳前後に見える。
「正確には同い年だよ。体の成長を早めてね。君を育てるのは私だもの。だから少々体の成長を促進した。とは言っても十日は早く生まれたけれど。不思議? この体、人間のものなの。素敵でしょう? ちょっと弄っているから、正確にはもう人間ではないのだけれど」
(心が読めるの?)
「私はお前たちが天使とか悪魔と呼ぶ類のものよ。これくらいはねぇ」
ネックレスをつけられる。
金色の指輪のついたネックレスを。
(これは?)
「契約の証。もう少し大きくなったら、ちゃんと左手の薬指につけるのよ」
「あぅあうあう」
「まかせて。クソの始末も、おしっこ漏らすのもちゃーんとわたしが面倒を見てあげる」
胸に顔がうずもれる。
思考があるのに子供というのは実はとても辛い。
まず体が自由に動かないのがとても歯がゆい。
ただうまく動かせないというのがとても辛い。
過去できたことができないのがとても歯がゆい。
赤ん坊なのに思考があるのは苦痛だ。
「人間は脳の構造に縛られる。別人になれば別人の脳の構造に縛られる。お前がお前であるのはお前の脳みその構造をもってして初めて可能になるの。お前とまったく同じ構造、DNA、容姿を持った人間がいるとしても、まったく同一の他人に過ぎない。AIは感情を持たない。なぜかって? そこに付随する飴と鞭がないよ。己というのは幼い頃から経験してきた飴と鞭の積み重ね。それが個人というもの」
エーテリカは難しいことばかり言う。
「赤ん坊でいるのは苦痛でしょう? 体を良く動かさなきゃね。でなければ成長するにしたがって体の動きに不自由がでる。いいかい? 良く動かすんだ。動かした分だけものになる」
一か月もたつと、四つん這いで動けるようになった。トイレもぼくはトイレだと理解しているから漏らす事はなかった。ただトイレには連れて行ってもらわないと困る。
赤ん坊はうんちやおしっこをうんちやおしっこと理解できないから漏らす。理解していれば、排泄時のタイミングが理解できるので漏らさない。
四つん這いで動くのは意外と難しい。腕の筋肉と足の筋肉がすぐに悲鳴をあげる。転がった方が楽だけど、何よりバランスが悪い。頭が重い。体より頭が重いから、頭を支えるように動かないといけない。
「こらっ。そんなに動きまわっちゃダメよ。はい、おいでぇ……おい、こいよ」
恥ずかしいからやめてほしい。
「そんな事思わずにほらっ、ママンに抱っこさせておくれ」
母親ってこんな感じなのかな。
「そんな嫌な顔しないでよねぇ。傷つくわ。ほらっ。抱っこしたぞ。ペロペロペロペロ。うー。キスしてあげる」
(知ってた? 虫歯って親の口から移るんだって)
「私達に虫歯なんてあるわけないでしょう? 麻酔がどういう仕組みで人を麻痺させるかも解析してない人類が、私に意見するなんて生意気よ。それにしても柔らかいねぇお前は。あんなに不細工だったのに、ちゅっちゅっ。ふふふっ奪っちゃった」
(こういうの良くないと思う)
赤ん坊の時間は長く、短く、幸いで、眠い日々だった。
体を動かす訓練をし、疲れて眠り、エーテリカの姿を探し、依存するように寄り添う。
お風呂で体を洗おうと奮闘し、できなくて洗われて、ご飯を貰い、寄り添い肌が触れる感覚がとても気持ち良かった。
ハグすると気持ちいい。
「ハグをするとねぇ。オキシトンという快楽物質が放出するのさ。だから人は異性と接触したがる。でも嫌な相手に触れられてもオキシトンが出るものだから、その感覚が嫌で、女性は接触を拒むのさ。男が好きな異性に意味もなく触れたがる理由も一緒だ。セロトニンの方が好き? 何のことだかわかんないわ」
(そうなんだ)
「脳内麻薬というのは厄介なものでね。人間はこれらに支配されていると言っても過言ではない。おっと蜂蜜は食べてはだめだよ」
(そうなの?)
「ボツリヌスにかかるからねぇ」
エーテリカは時々ぼくに注射をした。白い液体がなみなみと腕に打たれる。
(これは?)
「知りたいかい? ゴブキトシンさ」
(ゴブキトシン?)
「ゴブリンに犯された女性のアニメや漫画があるだろう。この世界には人の知識や無意識が具現化した魔物がいる。憎しみと怒りを伴ってね。不思議に思わないかい? 孕み袋とはいうけれど、人間と言うのは実は敵だらけでね。風邪をひいたり、頭痛がしたり、目が赤くなったりするだろう? ウィルスや細菌などによるものなのさ。傷があり不衛生にすれば破傷風になったりね。でもゴブリンにいたぶられた女性は子供を何人も産んで消耗しているくせに助けられて生きていたりするだろう? 普通はすぐに感染症にかかって死んでしまうよ。特に出産というのは体力を著しく消耗するしね。それなのに何度も出産するのはおかしいと思わないかい? 男は出産の痛みに耐えられないというのに、数日で何回もだなんてね。そこで思ったわけさ。ゴブリンはペニシリンのような物質を分泌しているのではないかとね。そもそも奴らは不衛生だ。不衛生なあれを突っ込まれて、あそこが不衛生になるとは思わないかい? 梅毒もびっくりさ。そして発見したのがこのゴブキトシンさ。効果はペニシリンと同じようなものだが、こっちはもっと強力で人間にも優しい。なぜかって? 人間を生かすために分泌する物質だからね。この抗体のようなものを幼い頃に打っておけば、お前は丈夫に育つというわけさ。おっと何から精製するかは秘密よ?」
(そうなんだ。これは?)
彼女は、エーテリカはぼくが生まれたこの村を、滅んだ村を再建していた。
彼女に抱かれ、彼女の仕事を眺めている。
まず彼女はこの辺りの魔物をほとんど殺してしまった。そして魔物を捉えて、地下を作り、閉じ込めて何やら実験している。
「邪魔だからねぇ……それに奴ら臭いし不衛生だらけねぇ」
死骸と村人の死体は火葬された。
「奴ら、本当に臭いからねぇ……イヒヒッ」
臭いの好きだね。
「今の唄のフレーズに良くないかい? 臭いの好きだねぇ……ううぅ奴らは臭いからねぇ……燃やしてしまおうねぇ」
なにその歌。
電気はある。ただし彼女の実験部屋の中だけだ。
「雪が降っていただろう? 外は寒いのさ。だから、冷気を使って電気を作っているのさ。物質を冷たくする際に生じる抵抗を使っている。外気は寒いのだから、文字通り永久機関さ」
(オーバーテクノロジーのような気がする)
「そうねぇ……温度はエネルギーになる。人類が宇宙に出て、電気を電波のように飛ばせれば、人間は無限のエネルギーを得るよ。宇宙空間の温度は寒いからねぇ。これを使って電気を作り、地上に送れば良い。まぁ今のこの状態ではエネルギー効率が低いけれど、明かりをつけるぐらいは簡単なのさ」
そうなんだとしか言えそうもない。
残された建物の一つを修復し、家にしている。
彼女が望むだけで木々は削れ、板となり、建物へと変わっていった。
「おちんちん、口に含んであげようか?」
悪戯も好きだ。ぼくは嫌いだ。
「なに、その顔。だって小さくて可愛いのだもの。食べちゃいたいよ。ぱくってさ」
頭がお猿みたい。
「今は私も一応お猿さ。君のその嫌がる顔が何よりの好物なんだ。ついつい破廉恥にもなってしまうよ。そういえばゴブキトシンの原料はゴブリンの精子なのだけど、調子はどう?」
悪魔みたい。
「イヒヒッ。なにそのへちゃむくれた顔、最高に素敵よ」