九話
靖聡は優に全てを打ち明ける事は出来ない…そう決心すると
「ごめん…しばらく、連絡つきにくいと思う」
そう一言だけ言うと素早い動作で椅子から立ち上がった。椅子の脚がレンガ張りの地面に引っかかると慌てて倒れるのを防ぐ靖聡に向かって
「一方的に勝手なこと言わないで!」
優は気色ばんで立ち上がった。二人はしばし見つめ合いながら靖聡は決心を固める。
「ごめん…」
靖聡は目を伏せると絞り出すような声で告げ、財布から五千円札を取り出しテーブルに置いた。靖聡は、見つめる優の視線を振り切るように足早に立ち去る。
街路樹がサワサワと風に揺れている音だけが、靖聡の耳に残った。
もしかすると優が追いかけてくるのではないか…靖聡は一瞬そう思い耳を澄ましてみるが、優の足音は聞こえない。大通りまで出た靖聡は街路樹の前に並んだベンチに腰を下ろすと物憂げに座り込んだ。
急ぎ足で歩いたせいか、わずかに息が上がっている。
『光がルミだなんて…やっぱり言えない…』
靖聡はそれだけは言ってはならない…心からそう思った。
光という名は光本人がそう呼んでほしいと靖聡に言った名前であり、本名はルミという名だった。
かつてルミは優の後ばかり追いかけていた人物なのだ。優の一日のスケジュールを調べ上げ、何時にどこへ誰と行く、何を着ていくなどの行動から、その一挙手一投足に至るまでをじっと観察し付け狙っていたのだ。優曰く「ルミはストーカーよ」顔をしかめると、ほとほと困り果てたという表情で靖聡に訴えた。
ルミは優に羨望と嫉妬の念を抱いていたのだろうか…靖聡は思う。優と靖聡は都心の私学に通っていた事もあり、同級生や先輩後輩には数名の有名人がいた。自然、優にはタレントや女優などの友人知人もいる。
ある時、靖聡から聞き出した優の交友関係を利用したルミは、勝手に優の友人を名乗ると
「城庭優希さんの友人で下草ルミと申します」
合コンやタレントが出没するクラブへ出入りしては優の名前や、その友人であるタレントの名前を引用し、さも親しい友人であるかのように装ったのだ。口八丁手八丁で相手を煙に巻くと交友関係を広げ、やがて優の根も葉もない影口をバラまき、優の評判を落とそうと目論んだ。異性関係でも優の友人である事を強調しては相手を信用させ、金品を巻き上げるなどの乱交を働いたといういわく付きの女だ。
やがて、友人知人を経て優の耳にルミの噂が届く頃にはルミは夜の街から消え、靖聡に取り入っていたという訳だ。
ルミはの祖父は資産家だったが母親が腹違いとのことで地方の農村で育っていた。大学進学を契機に上京したルミは、優のような都会育ちが眩しく映ったのかもしれない。しかし、優自身はタレントや別世界の人物ではない事から「私と大して変わらないじゃない…」などと靖聡にむかって鼻先で小馬鹿にしたようにあしらってみせた。優にやっかんでいるように見えるルミは屈折しているのだろう、優への敵対心を燃やすと、優の生活圏内に出没しては優の行動を逐一探り、それを傷つける事が日常化していったのだ。優の存在が面白くなかったようだが、優にとっては甚大な被害だ。
後に靖聡は
「君と優は全く違うんだ。どうしてそう張り合いたがるんだ。自分を受け入れろよ!」
諭してみたが
「…何言ってるの? …私はあなたが好きなだけ。結婚してる訳じゃないんだし、別に誰とつき合おうと自由でしょ?」
靖聡の言い分にはまるで耳を傾けようとせず、まるで他人事のように聞き流すのだった。優を守ろうとルミに忠告する靖聡をルミは誘惑するのだった。




