八話
恋人の視線を疎ましく感じる靖聡は、心の奥底に眠る自らの思いに気づきつつあった。
優を愛している…そんな思いとは裏腹に、長い付き合いである恋人との関係に飽いている自分が居る事にだ。
優を気遣うあまり別れ話を切り出せない…そう躊躇っている。が、実は別れ話を切り出して優になじられるのが怖いのではないか…靖聡は深層の意識に目を向けると、正視し難いほどのエゴイズムがべったりとこびりついているのを感じた。
心のどこかで悪者になりたくないという、八方美人で臆病な自分が息づいている事に思い至ると、軽い鬱を患ったように暗い穴に落ち込んでいきそうな気分になる。自己保身で凝り固まっている自分の本心を露にしたくないが故に、相手を思いやる風を装いつつ、この問題で自らが傷つく事を避けようとしているのだと結論を導きだすのだった。
辺りの物音が先ほどより静まり、靖聡のいる場所だけがすっぽりと異次元空間に飲み込まれ、外界と切り離されているように感じられる。
もう二度と引き返せない…そんな時を刻んでいるのだと思うと今が惜しくて、心の動きまで停止しているように感じられた。
真実を打ち明け理解してほしいと思う反面、優と光のそれぞれと上手くやっていく道はないものかと言い訳を探す靖聡は、その裏で光との関係に刺激を受け、心は既に次の生活へと移りつつあることを否定することが出来なかった。つまり、優をなんとか断ち切ってしまいたい…そう思う靖聡も息づいているのだ。しかし、高校生の頃からの付き合いである恋人を無惨に打ち捨てるような仕打ちは避けたい…結果的にはそうなるはずなのにこの期に及んでまだ善人面をしたいのか…靖聡は自嘲気味な薄笑いを浮かべる。
なんて理屈の通らない、いい加減な夢を抱いているのだろうか…ふと目を転ずると、路面に映し出された欅のシルエットはピタりと止んでいた。影絵のような黒い図柄はレンガ模様の床と相まってパッチワークのように見える。
継ぎ接ぎだらけの影を見つめているうちに、散らばって収集がつかなくなっている自分の心が映し出されているようで、ふと不安を感じた靖聡は、影だけでも味方なって慰めてほしいという心地になっていた。
靖聡は逡巡するのに疲れ果てたように氷のとけたアイスコーヒーに手を伸ばす。
何故、光との関係を受け入れようとするのだろうか…靖聡は時間稼ぎのように自問を繰り返した。それは、光自身の魅力というよりも彼女を取り巻くシチューエーションに心惹かれているのかもしれない…靖聡は思う。
行く末に限りある光と結婚する事は一見すると不幸に思える。また、入退院を繰り返し通院も余儀なくされるという生活上の煩わしさがある上、親戚との関わりが増すであろう事など気苦労は絶えない。しかし、そんな不幸や苦労とは裏腹に、これまでの生活とは異なる未知の世界へ踏み込んでいく予感に胸を震わせる瞬間があるのだ。長い人生の一時期、不幸に喘ぐ女と時間をともにする事は靖聡の隠れた優越感を満たすのに充分だった。慣れ親しんだ優にはない新しい魅力を光に見いだすと、優への愛情よりも自分を小説の主人公のような気分にさせてくれそうな光との結婚生活に興味がそそられてしまう。
生涯に一度あるかないかの希有な経験なんだ…大声で本心を打ち明けたならば不謹慎だと言われかねないだろう…靖聡は思う。従って、靖聡はどこまでも余命少ない光を愛し、その愛を受け入れる事で残り僅かな時を全うしたいという大義名分を盾にここまで話を進めていた。
これまでのありふれた生活とは比べ物にならないエキサイティングな予感さえする日常の訪れを逃したくなくて、優を早々に断ち切りたいと思う気持ちが芽生えたりする自らの身勝手さに切なくなるが、優を嫌いなのでなく、単純に光に新鮮な魅力を感じていたのだろう。
二者択一を迫られた靖聡の答えは「新しい可能性への挑戦」だった。
他人は笑うだろうか…本音を打ち明けたら可笑しいと首をひねるかもしれない。だからこそ靖聡はそう悟られないよう優しい慈愛に満ちた男を演じているのかもしれない。しかし、一皮剥けば優とは終わりにしたい、いや、光の命さえも無視して“自分がより成長し楽しみを得る為”の選択という、エゴイスティックな自分が潜んでいる。そこまで辿り着くと靖聡は深い自己嫌悪に陥ってしまうのだ。
実は靖聡は長い交際期間中、優以外の女性と浮気をすることが珍しくなかった。幸い優は気づいていないようだが…『これまでも花から花へと飛び回る蝶のような暮らしてきたんだよ…君が知らないだけだ。その時々で自分を満たしてくれる女は違うからね。…僕は、所詮そんな男だよ…』いっそ、そう言えたら楽だろう…自虐的な気分の靖聡は瞳を地面を這うように飛び回る白い紋白蝶に向けると、季節の移ろいを実感するのだった。




