四話
背中の骨に沿って光の指がゆっくりと行き来する。
まるで、羽毛で撫でるかのように触れる様な触れない様な、くすぐったさを感じさせる仕草だ。背中に指を這わせる光の隣で、男は枕を抱える様な姿勢で腹這いになっていた。
「…ふふふ」
光の少し鼻にかかった声には艶があり、余命数ヶ月を宣告された女であるとは感じられない色香を含んでいる。満たされたのだろうか…光の様子に男は心地よさを覚えながら妻の囁くような笑い声を耳にしていると、不意に、ふんわりとした優しい声で快活に笑うかつての恋人、優を思い出すのだった。
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「ふ、ふ、ふ…」
優は戯けたように小さな笑い声をたてながら
「ここ、つなぎ目…」
指先に力を込め、男の背骨の節を強く押した。
「…なんか、疼くように、イタい…」
ツボなら指圧になるが骨だと鈍痛を感じる…男がくぐもった声で呻くように訴えると、優は、骨の脇を指圧をする時のようにその細い指をゆっくりと押し込んだ。
「…これは?」
屈託の無い笑顔で男を覗き込む優だったが、指が細いせいなのか押された箇所に木の棒が食い込む様に硬く感じられ、お世辞にも気持ちいいとはと言えない。
「…うーん…」
指圧を受ける場合はそれなりに肉厚の指がいいらしい…男は唸り声をあげつつ、優とのやりとりによって指圧にも向き不向きの指がある様だと、妙なことを学んだのだった。
優は、光より華奢で明るい女だった…男がそっと自分の指先を眺めると、記憶の中にある優のか細い指が甦る。男の薬指にはめられている指輪には、当然ながら優の面影はない。
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「なに考えてるの?」
光の声にハッとした男は病弱な妻との情事の直後、結婚前の恋人を思い出していた事にバツの悪さを覚えた。そのせいか光の問いかけには答えようとしない。代わりにそれが返事だとでも言いたそうに体を仰向けに直すと、細い光の腰に腕を回し抱き寄せた。
何をするでもなく、女とこうしている時間は楽しい。しかし…先日来、男は光の耳にレッドコーラルのイヤリングがはめられているのが無性に気になっていたのだ。
それは優の愛用していたイヤリングと非常に似ており、同じと言っても良さそうだ。
ゴールドの台座に一粒石がプロングセッティングで配されている為、石がやや浮き上がった感じに見えるデザインで、エンゲージリングなどのダイヤをイメージさせる作りだからか高級感を感じさせる。プロンセッティングは光を受けやすい為、輝き求められるダイヤモンドに用いられることが多い。
レッドコーラルの中でも血赤珊瑚と呼ばれるものは日本海の海底に生息している希少価値の高いものだ。非常に硬度が低い為傷つきやすく扱いの難しい天然石であるにも関わらず、硬質のダイヤモンドと同じ技法とは、男の目には珍しく映るのだった。
「ねぇ?…」
ぼんやりしていた男の不意を突くように、再び甘えた声で尋ねる光の声で現実に引き戻された男は
「……うん?…」
気づかぬ素振りで曖昧な返事を返すと、その心を隠すように妻に口づけ目を閉じた。
得てして男性は宝石やアクセサリーには無頓着だ。きっと、どこにでもある物なのだろう…そう思い直すと、深く考えないよう、先ほどの優の記憶をかき消すことにした。
『あれから優はどうしているんだろう…』
しかし、何故かこの頃光を抱く度に、優のことが思い返される。
イヤリングのせいだろうか…男は、まるで優を抱いている様な錯覚を覚えつつ体を離すと、その女が光であることを確認するように妻の瞳を覗き込んだ。
『光は俺がいなければ生きていけないんだ……』
自らに言い聞かせているのだろうか…男は胸の内で呟くと、優の記憶を心の片隅に追いやろうとやせ細った光の体を強く抱きしめるのだった。




