三十話
職場の人に見られてはいけない…靖聡は仕方なく駅前のコーヒーショップへルミを連れて入ると、ホットコーヒーを注文し、空いてる席に腰掛けた。
「急にごめんね」
人の多い明るい店内に入るとルミは化粧気のない顔で俯いた。人目もはばからず涙を流し続けるルミは、ブルゾンの袖で涙を拭う。沈黙する靖聡はブラックのままコーヒーを口へ含んだ。
ルミは青白く、心なしかやつれて見えた。
「今頃なに?」
靖聡はルミから視線を外すとつっけんどんに言う。しかし、そのまま答えず泣き続けるルミに、靖聡は溜息を吐くとポケットからハンカチを取り出し手渡した。
「ありがと…優しいね…ほんと、優しい…」
そう言われると悪い気がしなくもない。しかしこの状況はまずい…そう直感した靖聡は携帯を取り出すと優にメールを打ち始めた。昼間、ルミが窓口を訪れた後、業務が忙しくルミが来店した事を連絡しそびれていたのだ。かつてのこともあり、靖聡はルミのことを優の耳に入れなければ…咄嗟に思ったのだ。しかし、そんな靖聡の携帯電話を脇からルミが取り上げた。
「返せよ!」
やっぱり昔のままだ…靖聡は声を荒げるとそれを奪い返そうする。が、ルミは体をよじって離そうとしない。
「どうせ、優に電話でもするんでしょ!」
ルミは靖聡を見据えて言うと
「私、死んじゃうのよ!!!」
店内に響き渡るような大声で言うと、靖聡の携帯を握りしめたままテーブルに突っ伏し泣き始めた。他の客が何事かとこちらを見ていた。居心地の悪くなった靖聡はルミをなだめるように
「…落ち着いてくれ…」
小声で言うとその手から携帯電話を取り上げようとした。が、ルミは電話を握りしめたまま
「聞いて! 死んじゃうの! 死んじゃうの! 私、もうすぐ死んじゃうの!」
畳み掛けるように言うと靖聡に迫るような勢いで言った。その迫力に靖聡がのけぞると、身動きが取れなくなってしまった。
相変わらず勝手な女だ…靖聡は死の話以前にこの自分中心なルミに呆れてしまうのだ。
「…なんで俺に言うの?」
喘ぐように呟くと
「だって…だって…好きだったんだもん…」
ルミはぽろぽろと涙をこぼししながら靖聡を見つめて訴えると嗚咽をもらした。子どものように泣きじゃくるルミの背中をさすりながら、靖聡はまた、厄介な事になりそうだ…と暗い気分になる。
そんなルミを靖聡はしばし眺めていた。平穏な日常に降ってわいたようなルミの出現は、波風が立つようで不安を覚える。しかも今回は深刻な気配が漂っていた。
泣くのに飽きたのだろうか、しばらくするとルミは重い口を開いた。
「私、子宮癌なの…もうすぐ手術なんだけど…怖くて…」
そういうと顔を手で覆い沈黙した。なんと声をかければいいのか見当もつかず黙り込む靖聡は静かに耳を傾けた。
「ひょっとしたら、死ぬかもしれない……その前に会いたくて…」
そう呟くとルミは再び泣き続けた。
『このままここに居てもしょうがないな…』
靖聡は腕時計を見ると既に10時を回っている。ルミをなだめすかすと店の外へ連れ出した。
「なんて言えばいいのか分からないけど…気を落とさないで、治療に専念して下さい」
靖聡は駅での別れ際にそう声をかけると
「私が訪ねた事は優には言わないで。…まだつき合ってるなんて…随分、長いのね。もう別れてるかと思ったのに…」
皮肉まじりにルミは呟き、雑踏の中へ消えていった。
今も昔も勝手だな…ルミの願いは聞けない…靖聡は溜息を吐くと優にメールを送り、事の次第を伝えた。すると、優からはすぐに返信があり
「一切関わらないで」
一言だけ書き送ってきた優は、ルミの体調には一切触れようとしなかった。
しかし、ルミの話は深刻で末期の子宮頸癌とのことだった。子宮を全摘出しても助かるか分からないという。
「自業自得よ」
優はメールでそう言うと、ルミの事を忘れたいと付け足した。
「忘れたの? あの人にされたこと。お願い、二度と逢わないで」
家に帰った靖聡が優と電話で話すと、優はキッパリとした口調で言った。男は女性に比べると優しいのかもしれない。優は一切関わりたくないの一点張りだが、靖聡は歳若いルミの病気を知ると、なんとなく哀れに思えた。




