二十九話
客が持参した通帳には“下草マユミ”と書かれている。“下草”という苗字に一瞬ルミを思い出した靖聡だったが、すぐに打ち消すと
「お待たせしました、お客様…」
俯き加減で椅子に腰かけた女性に声をかけた。しかし女性が顔をあげた瞬間、靖聡は言葉を失った。似ている…目の前の女性客をしげしげと見つめると、大学の頃、優に憧れ嫉妬したその挙げ句、靖聡を寝取ろうと画策していたルミだった。
「あ!」
瞬間、たじろいだ靖聡は、他の客の目も気にせず思わず声を上げた。
「どーもー」
一方ルミは笑みを浮かべると軽く会釈し、何のわだかまりも無いように見えた。ここに靖聡が居る事を知った上で来店したのだろうか…一瞬懐かしい思いも甦ったが、すぐ後に苦い出来事が思い出され靖聡は無口になってしまう。
ここは客としてマニュアル通りに接しよう…靖聡はそう決めると毅然とした口調で
「下草様。先ほどの者から伺ったのですが、御名義の変更をされたいとの事ですね。申し訳ございませんが、あいにく名義変更は承っておりません。新しいお口座を開設される場合には、ご自身の身分証明書と印鑑をご持参の上誠にお手数ですが、改めてご来店下さいますようお願い致しております」
事務的に伝えると、ルミは意外なほど素直に
「そう、分かったわ」
笑顔で応じ
「じゃあ、またお願いします」
あっさりと店を後にした。鈴野の話では散々ごねていたそうだが靖聡に言われた途端、呆気ないほど素直に引き下がった。
靖聡はこの時、自分が目当てだったのかもしれないな…そう感じた。後で優にこの事を報告しよう…靖聡は思うと、鈴野に経緯を説明し、もし次に来たら自分では対処出来ないと伝えた。
その日の帰りだった。会計の収支が合わず、遅くまで残業をしていた靖聡が駅に向かう路地に面した通用口から表へ出ると、植え込みに隠れ、人目を避けるように真っ黒なブルゾンを羽織った女性が立っていた。暗闇の為うっかり見逃してしまいそうだ。靖聡は、それがルミだと気づかなかった。しかし、仮に分かったとしても素知らぬ振りをしただろう。靖聡はそれを見ないように、視線を外すと駅へ向かって足早に歩き出した。すると、後ろから小走りに追いついた黒い影に腕を取られた靖聡は驚きのあまり後ずさった。
暗闇で掴み掛かられるとはひったくりだろうか…靖聡は目を見開くと、警戒心を露にその人物の顔を見つめ、昼間、窓口でごねていたルミだと気づいた。
「ああ!!」
心臓が止まるかと思うような驚きの後、靖聡が
「ビックリさせるなよ!」
思わず怒声を浴びせた。立ち尽くすルミを前にした靖聡は服を払って落ち着きを取り戻すとその姿を上から下まで眺めた。学生の頃と変わらない姿だったが、少し痩せて見える。しかし、ルミは曰くつきであり、3回生の終わり頃から顔を合わせていなかった。靖聡は、そのまま無視したように駅への帰り道を急ぐとルミは後を追うように歩を速めた。
「ねぇ、ノブくん、会いたかったの」
ルミが再び腕を取ろうとした。靖聡はその手を振りほどこうとルミの顔を見た瞬間、その瞳が濡れているのを見、思わず立ち止まったってしまった。驚く靖聡に抱きつくように寄りかかるルミは、暗闇の人気の少ない路地で声を上げて泣き出した。




