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Geom Jeong Saek  −クロ−  作者: 小路雪生
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二話

 海に面した高台の家が二人の新居となった。

 病床の女が気ままに暮らしてきた男の心を捉えることができたのは、女が余命幾ばくもないことを知り、男が同情した為だろうか。

 男には高校生の頃から付き合っている恋人がいる。にも関わらず、なぜ…男は胸の内で自問自答を繰り返す。

 


 女の祖父は裕福だ。女が終の住処として選んだ家は孫娘に甘い祖父が購入したものだった。人里離れた不便な場所へ引っ越す事を都会暮らしの男が受け入れたのは、ひとえに女の為だ。

 広い庭の先は切り立った岸壁で、そこから先は太平洋が見渡せる。柵を乗り越えダイビングすれば、無傷で戻る事は不可能に思われた。

 そんな危険とも思える地形ではあったが海に面した家からの眺めは格別で、オーシャンビューを飽く事無く独り占め出来るという、個人の邸宅にしてしまうのは惜しいほどの贅沢な景観がある。

 景色に恵まれたこの地を終の住処に選んだ女の心根を思う時、男は愛しさと切なさが溢れるのを禁じ得ず、長期の休暇を取ると病を患う女と二人きりでの新婚生活を送ろうと決めたのだった。

 それもこれも女の残りわずかな命を思い、女の望むよう、出来る限りそばにいてあげたいという、男の精一杯の愛情表現なのだ。



 空気がいいせいなのか、男を暮らし始めた女の体調は落ち着いており、入院時よりも良好だ。海を望む静かな環境が女の健康に作用しているのだろうか。

 二人はバルコニーに出ると並んで座り、海を眺めるのが日課になっていた。

 いつも、他愛もない会話をしながら過ごすのだが、今日は流れ込む潮風に誘われるように女は椅子から立ち上がると、手摺に歩み寄った。やがて女は腕を海に差し出すと遥か彼方の水辺線を掴もうとするかのようにいつになく身を乗り出す。バルコニーの真下は海だ。


「危ないよ」


 上半身を折るような姿勢で遠くの海を見つめる女の身に危険を感じた男は背後から声をかける。

 が、聞こえないのか女は目を閉じたままだ。しばらく黙って見ていたものの、次第に不安を感じた男は


「光!」


 再び声をかけた。

 そんな男に逆らうようにヒカリと呼ばれた女は尚も身を乗り出すと、その爪先は今にも床から離れそうに危なげな様子で、ユラユラと体を揺らし出すと、風になびく長い黒髪が女の顔に絡み付くが、光はそれも気にならぬようだ。暫し眺めていた男だったが今にも飛んでいきそうな光の様に胸騒ぎを覚えると思わず立ち上がった。

 案じる男の目の前でわざと海に身を投げる様な素振りを繰り返すのは何故なのか…その仕草を執拗に繰り返し、容易にやめようとしない光に、男は苛立を覚えた。心配のあまりハラハラしているだけなのか…男は自分でも判然としない気持ちのまま女に近づくと、おもむろにその腕を掴んだ。


「よせ! 危ないだろっ」


 やや気色ばんだ男の声にも光と呼ばれた女は動じない。掴まれた腕さえ、まるで他人の腕であるかのように気にする素振りを見せないのだ。

 自分が注意を受けているという自覚があるのだろうか…男は、病床の儚げな光の願いを叶えてやりたい思いから籍を入れた。新婚旅行にさえ行けない光を思い長期の休暇を願い出て、こうして二人だけの時間を過ごす事にしたのだが、光という女と暮らすにつれ、鼻持ちならない面が見え隠れする事が気になり出していた。


 以前はもっと素直だと思っていたが、なかなか強情で決して主張を曲げようとしない。男の言う事などまったく聞かず、常に自分本位だった。残り少ない命だから、多少の我が儘はやむを得ない…男はそう受け止めているが、こうして真剣に止めているのにも関わらず、聞こえているのかいないのか、反応すらない光を目の当たりにすると男は戸惑いを隠せなかった。

 二人だけの空間に小鳥のさえずりと風の音だけが響き渡る。

 腕を掴む男を見ようともしない光の瞳は虚ろで、その視線の先にはもの言わぬ大きな海が広がっているだけだ。

 張りつめた様子の男と引きかえ、光は無表情のまま他人事のように押し黙っていた。


 光の長い黒髪がそよ風になびくたび、男は無条件に美しいと思ってしまう。この女の命が間もなく尽きるとは…そう考えると男の心は切り裂かれるように痛んだ。だからこそ、結局のところ光の我が儘も許してしまうのだろうか…男が考えるともなく考えていると、夢から醒めた様なぼんやりとした表情で光が男を見上げた。やがて悪戯っぽい小さな笑みを浮かべると、真剣な男をからかうように掴んだ手を振り払う。


「…危ないだろ」


 男の低い声を受け、光は上目遣いで


「……ごめんなさい…」


 あるか無きかの小さな声で、囁くように呟いた。


「もう、しないわ」


 じっと見つめて言う光の言葉に安心したのか、男は再び木製の椅子に腰をかけると、背後から光の姿を眺めることにした。

 しかし、光は何が楽しいのだろうか…ただ黙って海を見つめているだけの女の姿を見つめながら、男は自分がお守りのようだと苦笑いする。


 やがて空が暗くなり雲行きが怪しくなった頃、室内の電話が鳴ると海を眺めている光を残し、男は一人、室内に戻った。





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