第一話 途方にくれるピエロのお話
くたばれペニー◯イズ、と。
おれは排水溝目掛けて小石を蹴った。
くるりと先の丸まった赤い道化の靴ではうまく捉えられるはずもない。冷えきったアスファルトを靴底がかする。
冬を引きずる東北の三月中旬。時刻は二十三時。人気のない住宅街の十字路、月は無し。
ずざっ、とアスファルトを擦る音。虚しく響く。しくしく、畜生、四苦八苦。
行先の路地は両側の高い塀のせいで恐ろしく暗い。月並みな表現だが、まるでおれの行く末を暗示しているかのようだ。
もっとも、ここで光を求めて遠くのコンビニに進んだところで、別に未来は明るく輝きなどしないのだが。
これでもおれはつい先月まで、のどかな地方の遊園地で舞台に上がっていたれっきとしたピエロだった。
期間にしておよそ三年。お客は多くもなく少なくもなく、それでいて老若男女揃っている。駆け出しのおれにとって良い環境だった。
しかし、時代は空前絶後のピエロ不況。
げに悲しきかな、実際の事件や小説、映画の影響で、今やピエロはすっかり理解できない人外的存在。有り体に言えば恐怖の対象だ。
実在した道化姿のシリアルキラーのみならず、創作物においても、ペニーなワイズはジョーなジを引きずり込むし、ジョーなカーは街を混な乱に陥れる。
もちろん、風刺やブラックユーモアもピエロの一要素であることは否定しない。うんうん、それもまたピエロなのだ。
また、涙を流しながらも誰かを笑わせようとするさまは滑稽で理解しがたく、狂気性を宿しているようにも見えるのかもしれない。
だがしかし、仮にそうだとしても、世間の態度はあんまりではないか。
おかげでおれは、哀れな売れないおまんま食い上げド貧困ピエロだ。
世界的なピエロ恐慌を前にして、弱小道化師が生き残れる術はない。雇い主はさらりと名刀『時代の流れ』を振るい、おれのクビをものの見事にちょんぎった。
売れない理由のすべてを環境のせいにするつもりはさらさらないが、五割、いや、九割は「ピエロ=狂人」ムードのせいだとおれは考えている。待て、やっぱり九割九分だろう。
とはいえ彼も悪逆非道の鬼ではなかったようで、おれに一つの働き口を紹介してくれた。
当時の勤め先よりずっと規模が大きい、東北随一の都市、千代台市の遊園地での仕事だ。遠方への転居を伴うが、おれは喜び勇んで決断した。むしろ栄転、ステップアップとさえ言える。そう思ったからだ。
結論から言おう。
大間違いだった。
今日、おれは遊園地側の担当者と会ってきた。
実物を見たい、というメールでのやりとりのままにばっちりピエロメイクをして、事務所で待たされること数時間。
結局、若く敏腕そうな担当者と対面したときには、時計は二十一時を過ぎていた。あぁ、週末お馴染みのロードショーが始まるな、と思ったことを覚えている。今夜の映画は、近々完結篇が公開される大人気ピエロホラーだったはずだ。
そして担当者の第一声は、待たせたお詫びの言葉ではなかった。
「あー、良い不気味さですね」
と、一言。満足げに笑い、妙な企画書を提示した。
題は、「ピエロの館からの脱出」
その瞬間、おれは彼との間に致命的な認識の齟齬があったことを痛感した。
遊園地側は、ただ舞台で芸をして楽しませる愉快なピエロなんか求めていなかった。欲しかったのは、お化け屋敷のイベントに使える、リアリティのある不気味なピエロ。
違う、違うのだ。
おれがしたいのは、断じてそんなことではない。
おれは、楽しんでもらいたいだけだ。
「お化け屋敷でもお客さんを楽しませてると思いますよ」
遠回しに拒んだおれに対し、担当者はしたり顔で言った。はい論破、とでも言い出しそうな憎たらしい顎だった。
確かに、彼の言うことが正しいのかもしれない。流行を考えれば、ピエロを題材にしたお化け屋敷は、かなりの集客を見込めるだろう。もしかしたら、おれの名前が売れるきっかけにもなるかもしれない。
だが、おれにだって、信条というものがある。職を失おうとも、金がなくとも、自分を、つまりはピエロを恐怖の対象として売り出すことは許せない。
今後ピエロがホラー映画やお化け屋敷の中でしか生きられない存在になる、そんな悪行の片棒を担いでしまっていいのか?
否、いいわけがない!
「まぁ、考えておいてください」
とんとん拍子に話が進むとでも思っていたのだろう。担当者はやや苦い顔をしながら、追い出すようにおれを帰した。
やり場のない憤りと未来への不安は、おれに電車もバスも使わせなかった。なんだか無性に歩いて帰りたくなってしまったのだ。
と、以上がことの顛末である。
状況が状況だ。おぞましきピエロへの恨み節の一つや二つ、聞き流していただきたい。
しかしながら、遊園地から自宅のオンボロアパートまで徒歩で帰宅するのは、正直愚行だった。おれの中の内なるメロスが、電車使えばええやん、とささやいてきたのも当然のことだろう。
ただでさえ精神的に参ったというのに、肉体的にも疲れを溜めてしまった。どうせ明日の予定などないが、それでも無駄なことをした。我ながら滑稽だ。
自嘲気味に笑いそうになったとき、おれはあることに気づいた。
夜も更けた住宅街をさまようピエロ。もしも、誰かが目にしたら?
顔を引きつらせ、股関節が千切れんばかりに歩幅を大きくする。
とてもまずい。非常にまずい。
遊園地での一件で打ちのめされてしまって失念していた。どうしておれは着替えを入れたボストンバッグを背負いながら、靴下の一つも着替えずにいたのか。これは笑い話にできない類いの失敗談だ。
仮におれが、麗かで瑞々しい女子高生だとしよう。
何を言ってるかわからないと思うが、しばし付き合ってほしい。おれは女子高生だ、女子高生なのだ。
だが、女子高生おれは、実は最近父親とうまくいっていない。一度、門限を過ぎて帰宅した際に厳格な父と激しい喧嘩となり、以来、反発するように夜遅くまで遊びがちになってしまったのだ。
女子高生おれは日付が変わる頃の帰宅を繰り返し、父がそれを叱る日々が続く。もはや夜遊びは楽しくないが、今日も今日とて、父への反骨心から女子高生おれは夜の街を散歩していた。
そのときだ。女子高生おれは、アパートの陰から現れる何者かを発見した。
夜更過ぎの闇夜をおぼつかない足取りで進む怪しい男。ひょろりともすらりとも言えない体躯、背丈はかなり高く、百八十を超えているのは間違いない。
あぁ、しかし驚くべきはその格好、なんとピエロの仮装である。
女子高生おれは咄嗟に悲鳴を上げそうになり、お風呂上がりのケアを欠かさない両手で口を押さえる。
夜の闇に逆らうように跳ねた蛍光色の桃髪。対して垂れ下がる、赤黒チェックの四つ股帽子。赤い付けっ鼻は腫れたようで病的な白塗りの顔に無様に映える。ワンポイントの逆さ涙も笑顔めいた口紅も、もはや悪趣味な化粧でしかない。
さらに、純白を基調に水色をあしらった衣装は、不思議の国のアリスを彷彿とさせる。慣れ親しんだキャラクターをなまじ想起させるからこそ、その不気味さは勢いを増した。
女子高生おれは、やばい、以外の語彙を失い、半狂乱になりながら自宅に飛び込んだ。
案の定、比較的寛容な母になだめられている、不機嫌そうな父がいた。しかし父は、女子高生おれの異変を感じ取ると、何を聞くでも叱りつけるでもなく、まず、そっと抱きしめた。
そして女子高生おれは悟るのだ。
そうか、父は、本当に私のことを心配してくれていたのか、と。変な意地張ってごめん、と。
こうして、ひとつの家族の仲が深まったのである。
なんだ、ならいいか。
ばか、いいわけあるか。
あぁ何ということだ。これではまるで不審者だ。
ピエロのおかれた現状を誰よりも嘆いているおれが、悪いイメージを助長してしまうことになるとは。何と残酷な運命の悪戯。師匠に合わせる顔がない。
おれが慌ててつけ鼻を剥がそうとした、まさにそのときのことである。
突然、悲鳴が聞こえた。
平らに均したような夜の静寂を切り裂く、複数の悲鳴や怒声。鉄道の最寄駅のある方角だ。
このときのおれは、その悲鳴の原因が近頃世間を騒がしている『九十九手』と呼称される異形の通り魔であることも、『九十九手』が何をしようとしていたのかもまったく知らなかった。
ただ、誰かが怖がっているのであれば、泣いているのであれば。
おれが、ピエロが行かなくてはならないと、荷物を投げ捨て、踏み出した。
しかし次の瞬間、おれの意識は真夜中に回した洗濯機さながらにぐるぐると暗転した。
ただただかっこいいピエロの小説を書きたかったのです