第19話 千変万化
明るく華やかな帝都ではあるが、その恩恵を誰もが受けられるわけではない。
帝都の貧民街。貧困に堕ちた者たちが集う人生の終着点。
繁華街の裏側にある、この暗く饐えた臭いのする一画には、死んだ目をした浮浪者やゴミが溢れており、衛生状況も治安も最低最悪だ。
だが、社会不適合者を一カ所に集めるという点で役立っており、行政が積極的に解決を試みることはない。まあ、解決するにしても、貧民街に住む全ての者を退去させるには、多くの金と血を費やすことになるので、迂闊に手が出せない事情もある。
つまり、実質的な治外法権だ。そういった性質から、ここには貧民たちだけでなく犯罪者たちも集まり、その隠れ家として利用されている。
まともな者なら、絶対に足を踏み入れない場所だ。
「ノエル、ここだ」
名前を呼ばれ振り返ると、物陰から一人の男が姿を現した。いかにも軽薄そうな若いチンピラで、薄い笑みを浮かべている。
この男を追って、俺は貧民街にやってきたのだった。
「ロキ」
男の名を口にする。ちなみに、ロキという名前は偽名だ。本当の名は別にあるらしい。だが、それを知る者は誰もいない。
「わざわざ、こんな不潔なところに入りやがって。取引なら、別の場所でもできるだろ。服に臭いが染みついたらどうしてくれるんだ」
当然の不満を告げると、ロキは肩を竦める。
「そりゃ悪かった。だが、こっちは毎日、危ない綱渡りをしている身でね。日中は人目に付く場所で取引をしたくないんだよ。それは、おまえも同じだろ?」
「だとしても場所は選べ。おまえと違い、俺は表で生きる人間だ。貧民街に出入りしたせいで、根も葉も無い噂を立てられては困る」
「はっ、仲間を奴隷に堕とした奴がよく言うぜ」
「黙れ。配慮する義務はおまえにある。違うか?」
「わかった、わかったよ。だから、そう怖い顔をするな大将」
本当にわかっているのかは微妙なところだが、こいつも馬鹿じゃない。次からは注意するだろう。感情と行動は分ける、それがプロというものだ。
「ほら、今回の成果だ。受け取りな」
ロキは分厚い封筒を俺に手渡してくる。中身を確認すると、細かい文字が書かれた紙片が何十枚も入っていた。記載されている情報は、俺が依頼した通りのものだ。
「相変わらず良い仕事をする。流石は帝都最高の情報屋。千変万化の通り名は偽りじゃないな。どこにでも入れるおまえの前では、どんな秘密も丸裸か」
ロキの仕事は情報屋。しかも帝都随一の超凄腕で、相応の報酬さえ払えば、皇帝の肛門の皺の数も調べ上げてくるほどの実力者だ。そして、その情報屋としての能力の高さは、ロキの職能に関係している。
ものまね士、他人の外見をコピーすることのできる戦闘系職能。
この職能のおかげで、ロキはどんな場所にも入ることができる。また、非常にレアな職能であるため、その概要は鑑定士協会ですら完全に把握できておらず、狙われたら最後、侵入を防ぐ対策方法はほとんど存在しない。
加えて、能力に慢心することはなく、依頼主と取引する際は個別に姿を変えて対応し、決して誰にも正体を掴ませない用心深さも備えている。この軽薄なチンピラ姿も、数多ある姿の内の一つだ。年齢や性別だって自由自在である。
その能力は変異種に近く、実際ロキには、姿を変える変異種である妖狐の血が混じっているはずだ。つまり、混じり者である。レア職能の持ち主は、大体が特殊な血筋なので間違いないだろう。
「お世辞どうも。だが、誉め言葉よりも金が欲しいね。なんだったら、報酬に色をつけてくれてもいいんだぜ? ゴルドーの首で儲けたんだろ?」
ゴルドーを討伐したことも知っているのか。わかっているとはいえ、恐ろしい耳の早さだな。この優れた情報網も、ロキが稀代の情報屋として名を馳せている理由だ。
「金なら払うさ。いつも通り適正な額の報酬をな」
俺が財布から報酬を支払うと、ロキはそれを受け取った。
「へっ、まいど!」
「次の仕事は、またフクロウ便を使って連絡する」
「アイサー。――それにしても、おまえも数寄者だねぇ」
無遠慮に向けられる好奇心の目。ロキは愉快そうに続ける。
「傀儡師ヒューゴ・コッペリウス、あの『殺人鬼』を釈放させて仲間にしたいなんてな。やっぱ、おまえイカれているよ」
「おまえには関係の無い話だ。舌を落としたくなかったら口を閉じてろ」
俺が睨みつけると、ロキは両手を挙げた。
「お~、怖い怖い。不滅の悪鬼の孫は怖いねぇ」
「言ってろ。それじゃあ、俺はもう行くぞ」
「あ、ちょっと待て」
踵を返そうとした俺を、ロキが呼び止める。
「最近、貧民街で良くない薬が出回っているから、帰り道には気をつけろよ。日中は大丈夫だと思うが、一応な」
「良くない薬?」
「新しい覚醒剤だよ。最高にキマるそうだが、狂暴化する副作用がある」
「おいおい、そんな危ないものが出回っているのか? ルキアーノ組が黙っちゃいないだろ。元締めはどこの馬鹿だ?」
質問する俺に、ロキは表情を改めた。
「ところがどっこい、薬をバラ撒いているのは、ルキアーノ組の二次団体、ガンビーノ組だ」
†
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複合職能というレア職能がある。
通常、職能は戦闘系と生産系に分かれており、それぞれの特性が交わることはない。戦闘系は戦闘に関するスキル、生産系は生産に関するスキル、と習得できるスキルに明確な違いがある。
だが、複合職能だけは異なり、戦闘系と生産系の二つの特性を併せ持つ。それが、傀儡師という職能だ。
人形を操り強化する戦闘系スキルに加え、人形とその武具を生み出すための生産系スキルも使用できる傀儡師には、あらゆる戦闘に対応できる強みがある。
魔力の消費が激しく長期戦には向かないという弱点こそあるものの、万能型の戦闘系職能が器用貧乏になりやすい中、複合職能である傀儡師は、間違いなく最強格の万能型だと断言できる職能だ。
もし、俺が自分の職能を自由に選ぶことができるのなら、そして偉大な祖父が戦士だったという感情を抜きにすれば、迷うことなく全ての職能の中から傀儡師を選ぶことだろう。
その素晴らしき価値の前では、殺人鬼なんて風評はあってないようなものだ。
傀儡師ヒューゴ・コッペリウス。またの名を、『血まみれの剥製師』。帝都を震撼させた近年最悪の猟奇殺人鬼。
現在のヒューゴは帝都内の刑務所に収容され、死刑執行を待っている身だ。鑑定士協会が学術研究のためにヒューゴの職能を調査しているので、すぐに刑が執行されることはないが、調査が済んでしまえば生かしておく理由は無くなってしまう。おそらく、リミットは残り三ヶ月といったところだ。
だが、ロキに集めさせている情報のおかげで、ヒューゴを釈放させる搦手の準備は整いつつある。上手く事が運んだ暁には、殺人鬼という汚名を雪ぐための世論操作も行う予定だ。そして、清廉潔白の身となったヒューゴを、蒼の天外に迎え入れるという絵図である。
もちろん、ヒューゴが真正の殺人鬼なら、俺もこんなことはしない。どれだけ優れた能力を持っていようと、制御できない怪物を野に放つような真似は論外だ。
だが、俺は確信している。ヒューゴは冤罪だ。何者かが彼を陥れ、その罪を被せたのだ。哀れな傀儡師は、無実の罪で捕らえられたのである。
実のところ、冤罪を証明すること自体は簡単だ。問題なのは、権威主義の司法省に、既に決まった刑を撤回させること。これが難しく、多くの準備を必要としている。一歩間違えば、俺にも災いが降りかかってくるので、事は慎重に進めなければいけない。
残り三ヶ月。どこまでやれるかは、俺の才覚次第だ。
『アルマ、用事は済んだ。今どこにいる?』
貧民街の出口を目指しながら、アルマに思考共有を飛ばす。すると、アルマの怒った声が頭の中に響いた。
『おそい! 満腹猫亭ってお店! 早く来て!』
『そう怒鳴るなよ。奢るから許してくれ』
『えっ、本当!? やったね! 他人のお金で食べ放題!』
奢りと言った途端、アルマの声は明るくなる。現金な奴め。
満腹猫亭には俺も入ったことがある。料理は美味く雰囲気も良い店だったはずだ。このまま五分も歩けば到着するだろう。
それにしても、貧民街に入ってくる時は気がつかなかったが、周囲を観察してみると、危ない薬が出回っているというのは本当のようだ。
いたるところに血の染みがこびりついているし、人の歯や爪がよく転がっている。ロキの話を信じるなら、これは薬を摂取したせいで狂暴化したジャンキー共の仕業だ。まだ日中だから出くわすことはないが、夜になれば狂人たちが徘徊する危険地帯と化すに違いない。
貧民街だけならともかく、この外でもジャンキーが溢れて暴れるようになれば大事だ。実際、ロキの言い方は、薬が既に至る所で出回っていることを示唆していた。
元締めはガンビーノ組だという話だったが、二次団体の暴走を許すなんて、ルキアーノ組は何をやっているのだろうか?
まあ、俺には関係の無い話だ。闇の世界にも自浄作用というものがある。いずれ然るべき立場の者たちが解決してくれることだろう。
貧民街の出口が見えてきた。繁華街の喧騒が次第に近くなってくる。その途中で、気になるものが目に留まった。
「あれは――」
一見するとただの薄汚れた浮浪者の男。だが、どうにも雰囲気が他と違う。よく観察すると、帝都ではあまり見ない顔つきであることがわかった。
「東洋人か……」
ここに住む大半は犯罪者を除外すると外部からの移住者で、心や身体を壊し働くことができなくなった者たちだ。そんな中でも、東洋人の存在は珍しい。交易自体はあるのだが、この帝都に定住する者となると数が限られてくるためだ。
年頃は俺と同じぐらいか。シラミが湧いたボサボサの黒髪と色褪せた黒い瞳。しかも、足を悪くしているのか、長い棒切れを握り締めて座り込んでいる。
哀れだな、と思った。異国の地で死を待つだけの人生なんて、俺なら耐えられない。しかも若い身空だ。夢や希望もあっただろうに。
だが、決して他人事ではない。俺だって、ああなる可能性はあるんだ。探索者として大成した後ならともかく、金も地位も満足に得られないままドロップアウトしてしまえば、あっという間に立ち行かなくなるのだから。
キィン、と澄んだ金属の音がした。
気まぐれで落とした大判銀貨が、東洋人の前に転がる。たかだか一万フィル。それで何が変わるわけでもないが、温かい食事を腹いっぱい食べることぐらいはできるだろう。
「おい、待てや姉ちゃん」
不意に訛った声がして立ち止まる。あの東洋人が発した言葉らしい。俺が振り返ると、東洋人はふらつきながら立ち上がり、歩み寄ってきた。
うん? 姉ちゃん? 姉ちゃんって言ったか、こいつ?
「あんた、金を落としたじゃろ。ほら」
差し出された大判銀貨に、俺は言葉を失ってしまう。
「何ボケっとしとるんじゃ? あんたの金じゃろ? 大判銀貨一枚は大金じゃ。これからは落とさんよう、しっかり持っとくんじゃぞ」
「いや……」
「それと、こがいなところに、あんたみたいな綺麗な姉ちゃんがおったらあかん。何しに来たかは知らんが、さっさと出て行った方がええ」
綺麗な姉ちゃん、ときたか。
鏡が無いので自分の顔を見ることはできないが、おそらく今の俺は、筆舌にし難い表情をしていることだろう。
「な、なんじゃ、その恐ろしい顔は? 腹でも痛いんか?」
「……まず、はっきりさせておこう。俺は女じゃない男だ」
「えっ、男!? そ、それは、すまんかったのう……」
「そして、その金は、もういらない。おまえのような薄汚い浮浪者が触った金なんて、財布に入れたくないんでね」
「な、なんじゃと!?」
「だから、それは好きにしろ」
俺が踵を返すと、東洋人が迫ってくる気配を感じた。
「ちょ、待てやコラッ!」
その手が俺の肩に置かれようとした瞬間、俺は東洋人に回し蹴りを放った。
「がはッ!」
蹴りが直撃した東洋人は吹き飛び、その痛みに腹を押さえて息を荒げる。
頑丈な奴だな。手加減はしたが、失神させるつもりで蹴ったのに倒れないか。
「俺に触るな。身の程を知れ」
「……ハァハァ、おどりゃ、ようもやってくれたな」
東洋人は怒りに顔を歪め、棒切れを腰に構える。
まさか、俺と戦うつもりか?
「ワシは喧嘩は好かんが、ここまでコケにされて黙ってるほどお人好しでもない。兄ちゃん悪いが、ちぃとばかり痛い目見てもらうど」
臨戦状態となった東洋人は、意外にも様になっていた。足が悪いのかと思っていたが、そういうわけでもなさそうだ。素人特有の緊張によるぎこちなさも無く、その佇まいは非常に洗練されている。
傭兵崩れか? 少なくとも、ただの浮浪者ではない。武器は棒切れだが、強く打ち据えられたら、痛いだけじゃ済まなそうだ。
面白い。実に面白い。せっかくだ、どこまでやれるか見せてもらおうか。
「謝るんなら、今のうちじゃぞ」
「誰が謝るか、バーカ」
「ほうか。じゃったら――」
東洋人は腰を深く落とす。
「ここでくたばれや」
刹那、十歩はあった距離を、東洋人はたった一歩で零にした。
速い!
対応する間もなく間合いを詰められてしまった。棒切れが鋭く横薙ぎに振るわれる。直撃すれば確実に骨を折られるだろう。
だが、俺なら躱せる。
「なっ!?」
東洋人は、その一撃で俺を仕留めたと思っていたのだろう。
攻撃が当たる瞬間、俺は大きく仰け反っていた。鼻先すれすれを棒切れが過ぎ去っていく。回避には成功したが、体勢が崩れたままだ。上体を起こす余裕は無い。だから俺は、仰け反った勢いを利用してバク転をした。
その行きがけの駄賃に放った蹴りが、東洋人の顎へと伸びる。
「ぐっ!?」
一撃で意識を刈り取る、顎を狙った蹴り。
だが、驚いたことに、東洋人は顔を逸らすだけで躱してのけた。
バク転から着地した俺は、更に一歩下がって間合いを離す。東洋人の方も追撃はしてこず、距離を空けたまま警戒している。
東洋人は俺の蹴りで裂けた頬の血を指で拭った。
「おっそろしぃ軽業じゃのう。おどりゃ、ニンジャか?」
「ニンジャ?」
ニンジャ……ああ、忍者か!
記憶が正しければ、東洋の更に東、極東の島国にのみ存在する斥候系の職能だったはずだ。
ということは、この男は、そこからやってきたのか。
「忍者じゃない。俺は話術士だ」
「話術士? われがか? ……まあ、どうでもええわ。われが強いことは、ようわかった。じゃけんのう、こっからは『技』を使わせてもらうわ」
東洋人の纏う空気が一変した。まるで、強力な悪魔と相対している時のような殺気が、俺へと向けられている。
この明確な違い、さっきまでは本気じゃなかったってわけか。
「ははは、おまえ最高だな。非礼は詫びよう。おまえに興味が湧いた。だから、俺も本気でやらせてもらう」
俺は太もものホルダーからナイフを抜き、逆手に構える。
「殺されたくなかったら、全力を見せてみろ」
「はっ、そりゃワシの台詞じゃ!」
期待で胸が膨らむ。この東洋人は強い。ともすれば、伝説の後継者であるアルマに匹敵するほどに。まさか、本当に掘り出し物が道端に落ちているなんてな。
もし、この東洋人が俺の想像通りの強さなら、その時は――
「……シュゥーッ」
東洋人が蛇のような呼気を吐くと、その圧力が更に増した。
来る!
俺が身構えた瞬間だった。突然、幼い子どものような甲高い声が響く。
「コウガ! おどれ、何をやっとるんじゃッ!?」
転がるように現れたのは、丸々と太ったハーフリングのオッサンだった。