006 看病のお返し
「古谷くん、古谷くん」
透き通るような心地よい響き。誰かが僕の名を呼んでいる。
僕はゆっくりとまぶたを開けた。
天使が僕の顔を覗き込んでいる。
なんて美しいんだろう。
ボーっとした記憶が少しずつ輪郭を取り戻していく。
八島鈴の美しい顔が目の前にあった。
僕は昨日のことを思い出す。
「ごめん。眠ってしまった」
「一晩中、看病していてくれたの」
「心配だったから・・・」
あっ、あれっ。景色が歪んで見える。
ドサッ!
ベッドに突っ伏す体を起したものの、フワフワして支え切れずに椅子から崩れ落ちていた。
なんだこりゃ。
夢か?
体がだるい。
意識が遠のいていく。
・・・・・・
「古谷くん。大丈夫?」
八島鈴は慌ててベッドから飛び降りて、古谷三洋の体を抱き抱えた。
古谷くんの体が熱い気がする。
私の風邪がうつったのかな。
どうしよう。
長い髪を手で押さえて自分の額を、そっと古谷くんの額に重ねる。
男の子の額に初めて触れたので少しドキドキするけど、これは治療行為だと自分を納得させる。
熱いけどこれくらいなら大丈夫だろう。平常体温よりも多少高いが意識を失うと言うほどじゃない。眠っただけだろう。
んんんー。
古谷くんが小さくうめく。その口元が直ぐそこにある。後十センチほど唇を前に突き出せば触れ合える距離だ。
一度意識してしまうと、止められない。みるみる顔が熱くなっていく自分が恥ずかしい。
一晩、グッスリ眠って体調が戻ったみたいだ。昨日のだるさも抜けきっている。
古谷くんは私に抱えられて静かに寝息をたてている。さすがに、このままってわけにもいかないし。
「よいしょ」
脇下から腕を回して抱きあげようとするけど、男の子って思った以上に重い。
腕に力を込めると胸がグッと彼に密着する。なんだかこそばゆい。
「きゃう」
痩せているように見えたけど、古谷くんって、けっこう筋肉質なんだ。細マッチョってやつかなー。胸板の厚さを感じる。
私、なにをしているのかしら。でも、これは私を助けてくれた古谷くんの介護であって・・・。
うん、問題ない。
問題ないぞ、八島鈴。
私は、はしたなく男の子に抱きついている訳じゃない。
なのにドキドキが止まらない。
古谷くんに私の心臓の鼓動が伝わってないよね。
枯草みたいな匂いがふわりと鼻孔をくすぐり、私を落ち着かせてくれる。
私は知っている。
この香り。
一晩中、私を包み込んで癒やしてくれたほのかな香り。
洗剤の匂いと一緒にジャージにしみ込んだ古谷くんの匂いだ。
私が倒れた時に古谷くんがかけてくれた毛布からも同じ匂いがした。なぜか落ち着く香り。
やだ。こんなことをしている場合じゃない。私はなんとか古谷くんを抱えあげてベッドに横にする。
昨晩の私の汗でちょっと湿気ったベッド。鼻をクンクンにおわすと女の子の甘い香りがする。困ったぞ。
すごく恥ずかしいけど、仕方がない。彼の部屋を探し出して運ぶほど古谷くんは軽くない。私の体力では無理だろう。
彼の寝顔をそっと眺める。
ふーん。やっぱりだ。きれいな顔をしている。女の子みたいだ。
ボサボサの長い髪の毛を整えたらいいのに。せっかくの美少年が台無しだぞ。ワザとやっているとしか思えない。
私は手グシで彼の髪をすいた。男の子の寝顔ってかわいいかも。
クラスではまったく目立たない彼。
二年生のクラス替えで同じクラスになったけど、名前しか知らない彼。
一度も会話したこともない彼。
そんな彼に私は拾われた。
これって運命の出会いだよね。
クラスの男子はギラギラした目で私を見てくるけど、彼だけは違った。私に自分の理想を押し付けたりしない。
古谷くんといると素の自分をさらけ出せる気がする。
ホッと心が和む。なんだろう。この気持ち。
八島鈴はようやく自分の居場所を見つけたと思った。
いけない。こんなことを考えている場合じゃなかった。私を看病して風邪がうつったに違いない。今度は私が古谷くんを元気にする番だ。