波乱巻き起こる最終回③
風が強い。
グラウンドに残っている人たちが皆一斉にスカートやら帽子やらを手で押さえている。
その風は何も『北風と太陽』のように衣服を脱がせようと張り切って吹きすさんでいるわけではない。
それは、明らかに私の背中を押すように吹いていた。
「早く行け」と言わんばかりに。
「優、どうした?」
「……」
曜子先輩が私の顔色を窺うように近づく。私は、黙ったまま風に負けないように動かないでいた。
ふいに曜子先輩が右手を差し出す。
「これは……」
「私のバッティンググローブ」
曜子先輩の手のひらには、さっきまで着用していた白皮のバッティンググローブ。
使いたてなのか、その白色にくすみは見られない。
受け取れということなのだろうか。
「あの、先輩? これは」
「優さ、今までの打席……本気出してなかったでしょ」
曜子先輩の声のトーンが急に下がった気がする。
「え!? そ、それは……」
やはりこの人にはお見通しだった。私の力感の無いスイングを見て何も思わないはずがない。
野球に厳しい曜子先輩のことだ。新入生だろうが助っ人だろうが容赦しない。
きっと怒られる。
私が叱責をくらう覚悟で下を向いたとき、
「これ。私のバッティンググローブ。貸すよ。優が思い切りスイングできなかったのって、素手でバットを振って手荒れしたくなかったからなんでしょ? 心愛に聞いたよ」
私がベンチの方を振り向くと、心愛が胸の前で両手の拳を握り「頑張って!」と目でエールを送っているのが見える。
「そ、そうですそうです! 私すぐ手がカサカサになっちゃって~……最初に言えばよかったですね、あはは。ありがとうございます。使わせていただきます」
「うん。それとね……」
曜子先輩は私にバッティンググローブを手渡した後、今度は右手に握ったバットを私の前に差し出した。
「これ。見た感じ、優にはこれくらい重いバットのほうが合ってると思うんだ。さっき朱夏から、おもり付きのバットをぶん回してたって聞いたし。私の使ってるバット、ちょっと重いかもしれないけど、当たれば飛ぶからさ。使ってよ」
「う……ありがとう、ございます」
私は、曜子先輩の手から渋々バットを受け取る。早くも私の怪力エピソードが部内で広がっていたことに少し絶望したが、曜子先輩の笑顔に押し負けるようにしてその思いはかき消えた。
「次のバッター、早く準備しなさい」
審判の声が飛ぶ。
私は、バッティンググローブを急いではめ、曜子先輩から貸してもらったバットを持って駆ける。
「じゃ、私も行くから。優、思いっきり振ってこい!」
そう言って、曜子先輩は一塁へと歩いていった。
「思い切り……振る」
曜子先輩の言葉を反復する。
思い切り。そう、思いを切るんだ。
見ず知らずの私のために――本当に勝手ではあるけれど――ここまで繋げてくれたんだ。
恩をもらったつもりは毛頭ないけど、何か……、何かで返さなければいけない気がする。
だから、この打席で私は……今まで私が抱いてきた野球への思いを――断ち切る。
私が打席に立つと、砂煙をあげるように風がゴウッと鳴る。
少し気を抜けばバランスを崩してしまうほどの強風が、私の背後から吹きすさぶ。
穏やかだった春の心地よさは、もうグラウンドには残っていない。
マウンド上のピッチャーは正面から吹く暴風に、帽子を押さえながら苛立ちを見せていた。
狙うは初球だ――。
私はグリップを握る手に力を入れる。
ここまでの3打席で私は、初球のストレートを打ちセカンドゴロに倒れている。相手からしたら、私が5番に座っているとはいえこの試合でブレーキになっている選手としか思っていないはず。
初球はストレートで来る。
そこを、叩く。
「プレイ!!」
審判の合図とともに、ピッチャーがセットポジションに入る。
足を大きく上げ、腕を振り切るように投じた。
――ストレート!
ピッチャーからボールが離れた瞬間、確信した。
指から放たれたそのボールは、美しい縦回転でこちらに向かってくる。
私の視界からはボール以外のすべての物が消え去り、視線はその一点に注がれる。
ボールが近づくに連れ、その縫い目まではっきりと見えるようになる。
まるで世界が時を止めたかのように。
これがゾーンというものなのだろうか。
ボールはその速さを失い、手に握ったバットは空気のように軽い。
まさか、野球嫌いの私の野球人生最後の最後って時に、野球人の誰もが夢見るこの状況に出会えるとは思わなかった。
まったく、野球の神様っていうのは心底意地の悪い、最悪の神様なのだろう。
私は、バットを振り切った。
その最悪の神様に届くように。
ありがとうとさよならを乗せて。
カキィィィン!!
白球が、青空を舞った。