波乱巻き起こる最終回①
「優ちゃん、お疲れ様~」
「ありがと、心愛」
6回裏の守備が終わり、私がベンチへと帰ってくると、いつの間に用意したのか、新品のタオルとスポーツドリンクを心愛が渡してくれた。私はそれを快く受け取る。
心愛は、私だけではなく先輩たちにもドリンクを差し入れたり、怪我をしてないか聞くなどのケアを行っていた。よくできた、というかできすぎたマネージャーである。もはやその様子は、長年蒼美野球部のマネージャーを務めていたのかと錯覚するぐらいの働きっぷりに見える。眠っている
私は空いている椅子に腰かけ、グラウンドを見つめる。
「やっと、最終回かぁ……」
この新歓試合は、女子プロ野球の規定に則り、7回制で行われている。現在のスコアは、6-4で蒼美が2点ビハインド。この回で蒼美が追いつかなければ、7回裏の相手の攻撃を迎えることなく試合終了となる。
その刹那、一陣の風が吹く。結構強い。雲の流れるスピードも相変わらず速い。
太陽がその雲に隠れては顔を出し、隠れては顔を出しを繰り返していた。
バックネット裏で観戦していた新入生がその風に押されるようにして、チラホラとグラウンドを後にしていくのが見える。きっともう飽きてしまったのだろう。
私は、頭にかぶった野球帽が風で飛ばされないように、目深に被り直した。
この試合が始まってからたった2時間ちょっとの間に、色んな出来事があった気がする。
久しぶりに打席に立ち、久しぶりに土にまみれ、久しぶりにボールを投げた。”野球をする”という懐かしい思い出と同時に、私の黒歴史をこじ開けるように思い出したくないことまで思い出しそうになったけど……そんな生き地獄のような時間もこれで、もう終わりか。
もう終わり……。
なんだかちょっとだけ寂――いやいや、何考えてるの私!? それはさすがにないよ、さすがに!!
私が煩悩を振り払うように首をブンブン振っていると、隣の椅子に心愛が座ってきた。
「新歓試合、終わっちゃうね」
「うん」
「どう? 久しぶりに野球やってみて。楽しかった?」
「ハァ!? 何言ってんの心愛! バットは現役の時よりなぜか軽く感じるし、汗と土で全身べっとべとになるし、守備も先輩たちのせいで大忙しだし……。サイアクだったよ、サ・イ・ア・ク!!」
「フフッ」
頭を抱えながら呻く私を見て、心愛が嬉しそうにほほ笑む。私は本気で嫌がってるのに、心愛には全くそれが伝わってない。まったく、変なところで鈍感なんだから。
「優ちゃ~ん!」
千鶴先輩が私を呼ぶ。千鶴先輩の周りには、他の先輩たち全員が集まっている。
「千鶴先輩、なんですか?」
私がそう尋ねると、千鶴先輩がニコリと笑顔で返す。
「優ちゃん、円陣組むよ!」
円陣。その言葉を聞いた時、私は心がキュッと締め付けられるような気持ちになった。
試合の流れからして、このタイミングで円陣を組むのは間違ってない。むしろベストなタイミングだと言える。
でも……その輪の中に私が入るのは、間違っている。
それは、私が新入生だからでも、部外者だからでもない。
私は信じていないからだ、この野球部の勝利を。早く試合が終わってほしいなどと思っている人間が、ずけずけと立ち入って良いわけがないんだ。
だから――
「私は、遠慮しておきます……」
私の言葉に、さすがの千鶴先輩もきょとんとしている。他の先輩たちも同様に。
それもそうだ。こんな生意気な下級生がいたら、私だって嫌な気持ちになる。
場の雰囲気を悪くしてしまうのは少し心苦しいけど、それでも、自分に嘘をついてその輪に入るよりはマシだ。
しかし、私の予想に反して、返ってきた千鶴先輩の声音は今までどおりのあっけらかんとしたものだった。
「え~どうして~? 最後なんだし、一緒にやろうよ、円陣!!」
おどけるように話す千鶴先輩の態度に私は、自分がなんだか聞き分けの悪い子どもみたいな扱いされた気がして、少し声を張って言い返した。
「私は別にこの野球部の部員でもないし、この試合に勝ちたいなんて思ってなくて……むしろ早く家に帰りたいって思ってて……だから……」
「ううん。チームの勝利もそれはそれで大事だけど、今日は本戦じゃないし勝ち負けが問題じゃないの」
「え、じゃあ何のために円陣組むんですか……?」
勝利のための円陣じゃないなら、いったい何のための円陣だっていうんだ。
「何のため? それはね――」
千鶴がその口元に余裕を見せると、静かに口を開いた。
「この回、なんとしてでも優ちゃんに打席を回してあげよう、ってね。まあ言うなれば、”野球を楽しむため”かな!」
「野球を……楽しむ……ため?」
何を言っているんだろう、この人は。
私には千鶴先輩の言っていることが全く理解できなかった。
それは、野球が楽しいものである、ことに対しての批判の意味ではない。
なぜ、私に打席を回すことが野球を楽しむことに繋がるのか、その関係性が掴めなかったのだ。
「だって、優ちゃんが楽しそうに野球やってるところ、まだ一度も見てなかったから。だからこのまま終わらせて、はい今日はありがとう! さようなら! っていうのは、無理矢理参加させといた手前申し訳ないし。なんかそういうの……悲しいなって思って」
「別に、私そんなの気にしませんよ」
「優ちゃんが気にしなくても私は気にするの!! ……ほら、私って言いようによってはわがまま、でしょ? だから、自分が楽しく野球をするために、みんなに野球を楽しんでもらわなきゃいけないの。だって、一人で野球を楽しむって、すごく難しいことだから」
千鶴先輩は、口元は微笑んでいたものの、目線はどこか遠くを見つめているように寂しげだった。
心なしか、隣に立つ曜子先輩の顔にも陰りが見える。
「だから、ね。私からの最後のお願い!」
千鶴先輩は口をニンマリと曲げ、公園で遊ぶ子供のように無邪気な笑みを見せる。
しかし私は、目の前で笑う自分よりも大きな子供に、純粋さと同時に子供特有の無垢なずる賢さも感じていた。
「もう、千鶴先輩はずるいですよ……」
自分の耳にやっと届くらいの小さな声で呟く。
形はどうあれ、目の前にいる子供――もしかしたら子供よりわがままかもしれない人――が、”最後のお願い”と言ってるのを断れるはずがない。
私は知っている。千鶴先輩が、それを見越して最後だと言っているのを。
八千代千鶴という人間は、そういうずる賢い人なのだ。
「最後のお願いなんですね?」
「もちろん!」
絶対嘘だ。
多分このお願いを聞いたら、千鶴先輩の『楽しい野球』に延々と付き合わされる羽目になる。
「ホントのホントに最後なんですね?」
「ホントにホント。神に誓って!!」
これも嘘。
だって千鶴先輩はそういうスピリチュアルなの、滅多に信じないと思うから。
でも――
「はぁ……。もう、わかりましたよ。円陣……組みます」
「――!? ありがとうッ! 優ちゃーん!!」
この抱き着きの強さ。
この体に伝わってくる熱。
そして、この千鶴先輩の満面の笑みは、嘘じゃない。
そうわかってたから。
「ほら、早くおいでおいで! やるよ、優ちゃん!」
「は、はい!」
千鶴先輩に手を握られ、為されるがまま円陣の中心へと引っ張られる。
私と千鶴先輩を囲むようにして並ぶ先輩たち。
その円の一辺には、ロボ子さんもベンチに腰かけたまま参加している。
いつの間にやら、心愛もその輪に加わっていた。
「よぉーし、みんな! 泣いても笑っても最終回。だったら最後は笑って終わろう!」
中腰になって屈む千鶴先輩に合わせ、円陣を組む全員が互いに肩を寄せ合い小さくなる。
「蒼美ぃー!! ファイッ」
「「「オーー!!!!」」」
青空の元、重なり合って響く声。
太陽を覆う雲は、いつのまにか風に流されどこかへと行ってしまった。