初打席は土の味
「あぁ……せっかくこの日のためにセットした髪がぁ……」
ヘルメットをかぶった瞬間、今朝方ゆるふわに仕上げた優のショートボブは、跡形もなく押しつぶされた。
肌と髪が密着して気持ち悪い――その感覚は、野球をやっていた頃の嫌な記憶だけを鮮明に呼び起こさせた。
『次のバッター、早く準備しなさい』
審判が、早く打席に入るように優を促す。
優は急いでベンチから適当にバットを引っ張り出し、打席へと駆ける。
久しぶりに握るバットのグリップの感触にさらに気分が悪くなりながらも、試しにちょっとだけ持ち上げてみる。
バットの重力が、ずしりと優の細い腕にのしかかる。
鉄塊のような重さを感じた優は、嬉しさのあまり口元をほころばせた。
「よし! やっぱり重く感じる!! 私、成長してる!!」
普通、非力になることを成長とは呼ばない。
しかし、その男勝りな怪力のせいで周囲から”ゴリラ女”と揶揄されてきた優にとって、”非力になる”ということは、女性らしさ――ひいては女子高生らしさをあげるための必須事項、すなわち成長と言えるのであった。
「いや~やっぱりか弱き乙女の私には、こんな重いバット、持ち上げるので精一杯だな~! やっほーい!!」
わざとらしくバットを持ち上げ、優はウキウキで打席へと向かう。
「これで、ゴリラ女も無事卒業――」
「!? ちょ、ちょっと待ってください、村田さん!」
優の独り言を遮り、先ほどまで三塁コーチャーをしていたおかっぱ眼鏡女子――早乙女朱夏が呼び止める。
コーチャーボックスには、その朱夏の代わりに光里が入っている。
「えぇーと、早乙女……朱夏先輩! 心配そうな顔してどうしました? ……え? バットが重たそう……ですって!? いや~そりゃあそうですよ! 私、か弱い乙女なんですから!!」
「い、いえ……。重たそうもなにも、それ――」
朱夏が困惑の表情を見せながら、優が持ち上げているバットの先端を指さす。
「――重り、ついたままですよ……?」
「……へ?」
優の頬を嫌な汗が伝う。
優は、油の切れたブリキ人形のように小刻みに震えながら、恐る恐る自分が持つバットの先端に目を向ける。
そこには、バットの直径より一回り大きい、これまた重たそうな金属製のバットウェイトが取り付けられていた。
「……その重り、700グラムはあるんですよ? 私なんて振ることはおろか、持ち上げることすらままならないというのに……。村田さんって――」
まずい、この流れは……!
この時、優の頭の中には、過去幾度となく言われそのたびに傷ついてきたあの言葉がよぎっていた。
やめて、言わないで!! その言葉だけは――
「――力持ち、なんですね」
「グハッ!?」
懇願虚しく、その言葉は優の心を容赦なく貫いた。
心に修復不可能な大穴が開いた優は、力なくその場に膝をつく。
言われた。言われてしまった。
中学時代、必死に自分の怪力を隠蔽・克服しようとした日々が、走馬灯のように優の頭の中を駆け巡る。その努力の日々は、無残にも今散っていった。
「体育の時もわざとあんまり動かなかったり、食べたいものとかもあんなに我慢してきたのに……なんで……どうして……?」
「あの、そろそろ打席に向かった方が……」
念仏のように何かを呟いている優を多少気味悪がりながらも、朱夏が声をかける。
「あぁーそうでしたねー。ハハハ、ハハハハハハハ……」
放心しかけの優は、フラフラとその場から立ち上がって打席へと向かう。
……重りがついたままのバットを引きずりながら。
「いやだから、その重り外してから行ったほうが――」
「あぁーそうでしたねー。ハハハ、ハハハハハハハ……」
ドン!!
優は、バットを重りがある先端の方に持ち替え、グリップエンドを地面に思い切りたたきつけた。
その鬼気迫る荒々しい動きに怯えた朱夏が、「ヒッ……」と悲鳴にもならない声を漏らす。
振動により外れたバットウェイトは、どすっ、というあからさまに重たそうな音を立てて、砂の地面にめり込んだ。
不気味な薄ら笑いを浮かべて打席に入る優を、審判とキャッチャーが戦々恐々と見つめる。
優は、先ほどの夜子の打席みたく、よろめきながらバットを構えた。
ピッチャーが、小さな体におぼつかない立ち姿の優を見て安心したのか、気を持ち直して投球動作に入る。
ピッチャーが投じたボールは、キャッチャーミットの皮が弾ける音を響かせ、ストライクゾーンど真ん中に収まった。
『ストライ~ク!!』
審判が右手を大きく上げる。
優は、その間身動き一つせず、目は明後日の方向を向いていた。
その様子を見た千鶴が、優に声をかける。
「優ちゃーん! 振らないと当たらないよー!!」
振らないんじゃない、振れないんだ。
当たったらどこまでも飛んでいきそうな気がするから。
重りの外れたバットは、落ち込む優の心をあざ笑うかのように軽かった。
「チヅル先輩……? やっぱり初心者をいきなり打席に立たせるのは、ムリがあるんじゃないデスカ……?」
気が滅入った様子で打席に立つ優を見て、エミリーが抗議する。
すると千鶴は、キーボードを小気味よく叩きながら、余裕の表情で答えた。
「あぁ、その事なら問題ないよ。だって優ちゃん、野球経験者だもん」
「「えぇー!!?」」
千鶴の思いがけない一言に、蒼美ベンチがざわつく。
「What? そうだったんデスか!? でも、ユウからはそんなこと一言も――」
「今朝さ、新歓試合のビラ配りしたじゃない?」
「? え、ええ……。確かにしましたケド……それがどうしたんデスか?」
千鶴の話が思わぬ方向に飛躍し、エミリーは頭に疑問符を浮かべる。
他の部員も同じように首を傾げる。
千鶴は、そんな部員たちの様子を見て、自慢げに鼻を鳴らした。
「フフン。この天才発明家である私が、よもやビラを配るためだけにビラ配りをしていたと思う? いいえ思いませんとも! なぜなら私は、天才発明家だから!!」
「いや、千鶴が天才発明家なのは全く関係ないだろ。いいから早く説明しろ」
もったいぶる千鶴に、曜子が釘を刺す。他の部員も呆れた表情で千鶴を見据えている……ただ一人を除いて。
「ま、まさか!? お姉さまはあの一見無意味とも言えるビラ配りに、私たちでは到底考えつかない知られざる価値を見出していたというのですか!?」
キャッチャー防具の準備をしていた朱夏が、眼鏡の奥に写る瞳からキラキラと熱視線を送る。
「いや無意味って……。ま、まあそれは置いといて、さすが朱夏! 私の女房役を務めているだけあるね~!」
千鶴が朱夏の元へスタタと駆け寄り、やさしくそのおかっぱ頭を撫で始めた。
朱夏はご満悦といったように、「えへへ~」と甘えた声を出しながら蕩けている。
「また千鶴と朱夏ちゃんの夫婦漫才が始まっちゃった~。いいな~、私も夜子ちゃんとあんな感じにイチャイチャしてみた~い♡」
玲奈が、ハアハア言いながら顔を火照らせて夜子を見つめる。
「よ、曜子!! 玲奈が発情する前に早くあの二人を何とかしてくれ!!」
夜子がすかさず曜子に助けを求める。
子犬のように震える夜子を脇に抱えながら、曜子は千鶴に説明を要求した。
「それで、なんで千鶴は優が野球経験者だって知ってたんだ?」
千鶴は、トロトロになっている朱夏を撫でる動きを止めて、それに応じる。
「それはね~、マメだよ」
「「「マメ?」」」
「そう、マメ。今朝のビラ配りでね、優ちゃんにビラを渡したんだけどさ~。その時、偶然優ちゃんの手のひらにマメが何個もあったのが見えたんだよ。いや~あのマメは相当バットを振り込まないとできないよ~!」
腕を組んで、うんうんと思い出すように頷く千鶴。
「な、なるほど!! お姉さまはビラを配りながら手のマメの有無を確認することで、新入生の中から野球経験者をあぶりだそうとしていたんですね! さすが、お姉さま!!」
「え!? ……あ、そ、そうだよ! もちろん!! そーじゃなきゃ、あんな意味のないビラ配りなんてこの私がするわけないじゃん!!」
「千鶴。今自分で”偶然”って言わなかったか?」
「♪♪♪~」
曜子からの痛い指摘を誤魔化すように、下手な口笛を披露する千鶴。
周囲が蔑む目で千鶴を見つめる中、朱夏だけはその目の輝きに光を絶やさず、羨望の眼差しで見つめていた。
『ストライ~ク!!』
審判の右腕が上がる。
打席内の優は、相変わらず棒立ちのままだ。
「おい千鶴。簡単に追い込まれたぞ。あやつ、本当に野球経験者なのか?」
「う~ん、おっかしいな~。何でだろ。……あ! もしかして久ぶりに打席に立って緊張してるのかも!」
ポンと手をたたく千鶴に、曜子が賛同する。
「お、珍しく気が合うな。私もそう思ってたんだ。試合に巻き込んでおいて、いきなり打てっていうのも酷だもんな。よし、みんな! 優を盛り上げるぞ!」
「「「おー!!」」」
「なんだか急にベンチが騒がしくなったような……」
優がベンチの方を横目で見ると、千鶴たちが絶やさず声援を送っている様子が見て取れた。
一部、玲奈や夜子の「愛してる~♡」だの「暗黒神の加護の元にー!!」だのと訳の分からない文句が聞こえるが。
しかし、一所懸命に喉を枯らす姿は、まるで優が今までこのチームで戦ってきた古参の部員であるかのように熱がこもっている。とても、今日初めて会った人間に対しての熱量とは思えなかった。
曜子先輩も、
それを見た優は、ハッと我に返る。
「数合わせの私のためにあんなに応援してくれてるのに、やる気のないところを見せすぎちゃだめだよね。せっかく曜子先輩のためにやるって決めたんだから、ちゃんとやらないと」
優は、バットを辛うじて支えていた腕に力を籠める。
とはいえ、この試合でヒットを打とうものなら、いくら助っ人という立場であっても試合後即勧誘の嵐になることは目に見えている。この試合に参加した時みたいに気づいたら入部してました、ってのがオチとして容易に想像できる。
人に乗せられやすい優にとって、特に千鶴のような人間は要注意人物だ。
「うぅ……。曜子先輩にあまり悪いことはしたくないし……。かといって千鶴先輩に言いくるめられて入部することになったら本末転倒だし……」
二人の先輩に対する気持ちに板挟みになりながら、しばらく思い悩んだ末、優は一つの答えを導き出した。
「よし。セカンドゴロを打とう」
打席での一応のやる気は見せ、尚且つ勧誘の対象から外れるには、こうするしかない。
幸い、相手ピッチャーもそこまで良い球を放るわけではなかったので、優にとってバットにボールを当てることぐらい容易い動作だった。
相手投手の指からボールが放たれる。
優は、セカンド方向に狙いを定め、ボールの上をコツンと優しく叩いた。
インパクトの瞬間、バットから手に伝わってくる石のように固い硬球の感覚。
バットに当たったボールは――優が思ったよりも強い球足だったが――狙い通りセカンド正面のゴロになった。
「とりあえず、これで何とか――」
優がバットを置いて、一塁へゆっくりと走り出したその時だった。
「優ちゃん!? なんで、優ちゃんが新歓試合に出てるのー!!?」
優にとって聞き覚えのある声が、バックネット裏のギャラリーの中から聞こえた。
優は咄嗟に自分を呼ぶ声がする方向に顔を向ける。
愛らしく大きな瞳が、驚きのあまりさらに大きく見開いている――心愛だ。
「わっ、心愛!? いや、これは違くて――」
優は心愛に弁解しようと、後方に振り返ろうとした。
しかし、それがいけなかった。
無理な体勢に足がもつれる。
「うえぇ!? やば――」
慌てて体勢を立て直そうとする優だったが、なぜか足が思うように動かない。
スパイクの刃が、もう片方のスパイクの紐に絡まっていたのだ。
優は成す術無く、地面に向かい合うようにして落ちていく。
ああ、今日は人にぶつかったり、こけたりで、散々な一日だったなぁ……。
来世では、華やかな女子高生に生まれ変われますように。
それでは、さような――
ズサァ……。
辞世の句さえ言い終わらぬまま、優は大量の砂埃を舞わせて顔面からダイブする。
優の頭から離れてコロコロと独りでに転がるヘルメットが、その悲しさをより一層助長するようだった。




