九
「あのう……帰ります」
しかし、五葉は見た目にたがわず力持ちだった。
引きずられるようにして、強引に湯殿に連れて行かれたかと思うと着物をはぎ取られ、頭のてっぺんから足の先まで念入りに磨かれた。
強引ではあっても、髪は丁寧に梳かれ、体は糠袋で丹念にこすられて、だんだん気持ちが良くなってきた。
旅の間は、水で体を拭くか暖かい日に水浴びをするかで、湯を浴びるのは久しぶりだ。
腹を立てていたのも半ば忘れて、すっかりいい気持ちになって湯殿を出ると、着ていた物が消え、代わりに 新しい着物が用意されていた。
「あたしの着物は?」
一応抵抗を試みたが、やはり一顧だにされず、新しいものを着せられて、とある部屋に連れて行かれた。
部屋には寝具が用意されていた。
何がどうなっているのか知りたい気持ちもなくはなかったが、面倒なことに巻き込まれるのは困る。
なんとかして逃げ出さなくては。
言いなりにばかりなっているわけにはいかないと、そっと障子を開けてみた。
「何か」
五葉が待ち構えていて、声をかけてくる。
ちらりと目を走らせると、廊下に男も座っていた。
見張られているのだ。
「あ、…… 夜も更けたし、帰ろうかなあ……と」
五葉は黙って障子を閉めた。
帰してくれる気はないらしい。
強硬手段で突破しなくてはならないようだ。
さて、どうやって抜け出そうかと考えるつもりで、ごろんと横になった鹿の子は、緊張からの疲れと湯上りの気持ちよさから、あっという間に寝息を立て始めた。
鹿の子が目覚めた時、部屋の明かりは油が切れて、灯心はすっかり燃え尽きていた。
見張りの為の明かりが障子を通してうっすらと漏れているので、部屋の様子はかろうじて分かる。
すぐさま状況を理解した。
障子には、がっしりとした五葉の影が映り、まるで影にも見張られているようだ。
音を立てないように気をつけながら身を起こし、部屋の中を見回した。
床板はしっかりしていて、音を立てずに剥がすのは無理だ。
奥の襖に近づき、少しだけ開けて覗いてみた。
真っ暗だ。
思い切ってもう少し開けてみた。
押入れだった。
上段から天井板を押してみると、簡単に動く。
そこから天井裏に上った。
方角を見定めて、梁の上をゆっくり移動する。
まるで泥棒みたいだと思った。
屋根の傾き具合から、屋敷の端に行き着いたのが分かった。
天井板をずらして誰もいないのを確かめ、するりと降りる。
宿直が起きているのか、かすかに漏れる明かりを頼りに 庭に下り、見つからないように気をつけて土塀を乗り越える。
しかし、しばらく進むうち、さらに土塀に突き当たった。
広大な敷地には、いくつもの建物が在り、しもじもの人間にはうかがい知れぬ複雑な造りになっているようだった。
戦にでもなれば、砦の役目も果たすのだろう。
土塀を手探りで伝っているうちに木戸を探り当てたので、静かに閂をはずして出る。
何処にいるのかさっぱりわからないが、ゆるい勾配を下って行けば、外へいけるはずだと思った。
そうして、やっと見覚えのある表門にたどり着いたが、門番が見張っている。
警護の明かりがあるのは有難いが、門から出るわけにはいかない。
もう一度土塀を乗り越え、領主屋敷を脱出した。
そこまでは、軽業師にとって朝飯前の仕事だ。
問題はそこからだった。
月は沈んでいる。
星は満天に輝いているが、地上の景色を照らす役には立っていない。
屋敷の外は、夜明け前の真っ暗闇のただ中にあった。
とりあえず、舞台のある方角が全く分からなかった。