六
「どうしたんですか。人を呼びますから、しっかりして」
だが、女は片手で鹿の子の足元をつかんで、いやいやをするように頭を振り、いっそう怯える。
困った鹿の子は、とりあえず抱き起こそうとかがんで女に手を添えた。
地面に手をつき、がくがくとしながらもようやく頭上げて鹿の子に振り向けた顔が、いぶかしげにゆがみ、ついで、おそろしくゆっくりと開いた口から悲鳴が上がった。
抜けたような腰をふらふらさせながら鹿の子を突き飛ばし、両手を振り回して追い払いざまに、こけつまろびつ逃げ出した。
鹿の子は、何が起こったのか分からなくて呆然と立ちすくむ。
助け起こそうとしただけなのに、何が女を怯えさせたのかが分からない。
何かいけないことをしたのだろうか。
女が逃げた先を目で追っているうちに、はっと気がついた。
「いけない。そっちに行ったら駄目だ!
危ない。止まって。何にもしないから、止まって」
留守番の老人が言っていた。
そっちは谷だ。
落ちたら死んでしまう。
だが、鹿の子の大声が、さらに女を怯えさせた。
ヒーッと悲鳴交じりの叫びを上げて、女はさらに突き進んでいく。
言葉では止められない。
つかまえて引き戻すしかない。
鹿の子は追いかけた。
後ろから走ってきた誰かが鹿の子を追い越そうとしたしたその時、すべり落ちる音とともに絶叫が聞こえ、すとんと遠くに消えていった。
立ちすくんだ鹿の子の横に、男が立ち止った。
女を追いかけてきた様子だ。
「くっ、落ちたか……」
鹿の子に、その男が何者なのかなどと気にする余裕はない。
(なに、あたしのせいなの? どうして、何故?)
冷え込む夜だというのに、いやな汗が噴出した。
松明を持った男を含めて、さらに数人が駆けつけた。
皆、袖と袴の裾を括った直垂姿だ。
その中の一人が軽い舌打ちをし、鹿の子の肩をつかんで振り向かせる。
「おまえは何者だ」
松明に照らされた鹿の子を見た男は、目を見開くと、数歩あとずさった。
「軽業一座の……鹿の子……と……いいます」
問われるままに答えてしまったが、じわりと心配になってきた。
どうしよう。罪を問われるのだろうか。
止めようとしたのに、止められなかった。
分かってもらえるだろうか。
「後は、われわれが始末する。おまえは行け」
鹿の子は、ほっとして力が抜けた。
男は動こうとしない鹿の子を目でうながし、付け加えた。
「このことは他には言うな。
心の病に取り付かれた娘が、乱心して暴れたのだ。
家の恥になる。きっと口をつつしめ。よいな」
鹿の子は小さくうなずいて、のろのろと引き返した。
ちらりと振り向くと、松明を持った男ともう一人が、女が消えた方角に向かって行くのが見えた。