七
「鹿の子…… あたしの名は鹿の子」
飛んでいく寿々芽を目で見送って、鹿の子は答えた。
「お屋形様―― 白菊様のことは、決して言ってはならぬと釘を刺されています」
「私にも?」
鹿の子は、仕方なく頷いた。
「では、鹿の子殿が私の妻になるつもりだったの?」
「ああ――っ! そうですよね。
あのままいったら、そうなっちゃいますよね。
気づかなかった。そ、それは困ります」
「きっぱりとふられたねえ」
綺羅君が嬉しそうだ。
「もしかして、白菊姫にも嫌われているのではないか。
それで身代わりを立てたんだったりして。
辛いよねえ、片思い。一目ぼれした相手に、片思……い ……うぐっ」
伊織が綺羅君に飛び掛って口を塞いだが、すでに遅し。
陽映の周りだけが、どっぷりと日が暮れたような闇に包まれた。
「あのう、違います。そんな理由じゃありません」
「ということは、他に理由があるのだね」
沈没してしまって這い上がりきらない陽映に代わって、綺羅君が聞いた。
ひたと正面から見据えられて、鹿の子は逃げ切れないと分かった。
『あの方は…… 押しが強い というわけではないのですが、つかみ所が無いと言いましょうか、ひらりひらりといつの間にか好き勝手をなさるのがお上手なのです』
土岐野が、そんなことを言っていたっけ。
何処に逃げても、ひらりひらりといつの間にか追い詰められそうな、そんな気がする。
「実は……」左頬と左手の酷い火傷のことを話してしまった。
火傷を負う羽目になった経緯は知らないとも。
怖くて陽映を見られなかった。
愛しい人が醜い火傷を負って、どんな気持ちになっただろう。
逃げ出すだろうかと考えたら、白菊に悪いことをした気になる。
「がっかりしました?」
横を向いたまま、そっと聞いてみた。
「この先は私がお力になります。なんとしても、お守りします。
そう約束をした。破るつもりは無い。
どんな姿になろうとも、私の白菊だ」
白菊にたどり着こうとする道は、遠く、危うく思えた。
やっとここまで来て、迷いは無い。
「あっさりと約束だなんて言って、本当に大丈夫ですか」
鹿の子は心配だった。
白菊に巣食う闇を垣間見ているのだ。
「そんなに酷いのでしょうか」
伊織が恐る恐る尋ねる。彼も主人が心配だった。
「えーと、なんて言ったらいいんだろ。
そりゃあ初めて会ったときには、あんまりそっくりなので吃驚したわよ。
でも、あたしにとって、お家形様は、はじめから火傷のある方だった。
顔が似ている以外は全くの他人だし、そういう方だというだけのこと。
陽映様には違うでしょ。
以前のお可愛らしい……あれ? あたしが言うのは照れるけど、陽映様がおっしゃったんだから、まっ、良いか。
以前の白菊様をご存知なら辛いかも、悲しいかも、と思ったんです」
「ということは、鹿の子殿は、お身内という訳ではないのだな。ものすごく 似ている」
陽映が聞いた。
「はい、赤の他人です。似ているのは偶然。
あたしは、軽業一座と一緒に、この春初めて次嶺経に来ました。
孤児の軽業師だから、ご領主様のお身内なんてことはありません」
「では、何故ここに居る」
「無理やり連れてこられたんです」
鹿の子は、これまでのことを話した。
途中、細かいことを綺羅君が問いただして、長い話になった。
あの火事は、なんだったのだろう。
偶然にしては酷すぎる。
おかげで、みんな居なくなってしまった。
何処にも逃げ出せなくなった。
「今思えば、千種さんという人と出会ったことが、あたしにとって全ての始まりだったんですねえ。
暗かったし、怯えていたから分からなかったけど、紅王丸様がおっしゃるには、千種さんは、ご親戚で白菊様に似ていたみたい」
「紅王丸君……。快復なさっているのか」
陽映が目を見張る。
「あっ、土蔵に閉じ込められています。
内緒で会ったことがありますが、心の病には見えません。
とっても美しい若君で、寿々芽の名付け親です」
うっとりと言う鹿の子だったが、他の三人は、鴉にスズメと名づけた紅王丸の正気を、ほんの少し疑ったのだった。
大丈夫か?




