七
白菊姫の日常は動きが少なく、真似るのは難しかった。
鹿の子が通されていた部屋は、謁見の間だったらしく、御簾の後にある私室と謁見の間だけが行動範囲だった。
白菊の部屋はさすがに広く、障子を開ければ洒落た濡れ縁と広々とした庭もあり、目隠しになる土塀がめぐらせてあったが、白菊が庭に出ることはない。
その上、土岐野は多少とも意識して動いていたが、白菊姫は幼い頃から姫として躾けられてきたのだろう。無駄の無い所作ながら自然体で動いている。
思ったよりも難題だった。
御簾越しではあるが、会いに来る人間もほとんど限られている。
常に控えている土岐野は別にして、領内を取り仕切る実務をこなしていた鳥座惣右衛門という四十歳ほどの男が 一番良く出入りしていて、報告をし、白菊の指図を受けにやってきた。
名前から分かるように、一族の者だ。
鹿の子を連れてきた男たちの一人、平題箭謙介が呼びつけられて来る他には、郎党らしい者が 一度来たにすぎない。
誰が来ても御簾の中から話を聞き、座って、淡雪という名の白猫を撫でているだけだ。
自室でも黒漆の机で書き物をするくらいで、飛んだり跳ねたりすることは無い。
鹿の子は、もっと動いてほしいと注文したが、きれいに無視された。
紅王丸のことも何一つ分からないままに、日が過ぎていった。
ある日、何を書いているのか気になって、鹿の子は机の上を覗こうとしたが、
「おまえは、読み書きまでおぼえなくとも良い」
じろりと睨まれた。
白菊は、旅の軽業師に読めるとは思っていなかった。
ただうっとうしくて制止したのだ。
しかし案に相違して、鹿の子はそこそこ読み書きが出来る。
囃子方の権佐は、笛でも太鼓でも琵琶でも、およそ音の出るものは何でもこなしたが、読み書きと計算も得意だった。
鹿の子と隼人は、旅の徒然に教えてもらっていたのだ。
他の座員は無筆で、座長の藤伍も全く読み書きが出来なかったが、一度見聞きしたことは何でも覚えていて、一座を率いるのになんら支障は無かった。
書き留めておかないと大事なこともすぐに忘れる権佐より、藤伍のほうが断然頭が良くてかっこいいと思ったが、鹿の子には無理だったから、教えてもらうことにしたのだ。
『おいら頭が悪いから、覚えなくていい』 と逃げる隼人に、
『馬鹿ねえ、頭が悪いから勉強するんじゃないの。
親方みたいに賢かったら、する必要がないのよ』 と巻き込んだ。
おかげでよほど難しくなければ、たいがいのものは読める。
――鹿の子は、白菊にとり憑いた。
白菊は、まず日付を書いた。
鹿の子は日記かと思い、後ろめたくもあったが期待した。
口には出さずとも、弟の紅王丸のことを書かないだろうかと考えたのだ。
しかし、領内の状況と出した指示を書いてゆくのみ。政の覚書だった。
がっかりすると同時に不思議な違和感が残った。
それまでは動きに注意を払っていたから、心の状態に気がつかなかったのだ。
鹿の子は違和感の正体が気になった。
惣右衛門が来た。
領内で起こった揉め事が報告された。
張本人を捕らえたので罰を下すという。
白菊は、淡雪を膝の上で撫でながら聞いていたが、
「処刑せよ。公の場で首を刎ねよ。見せしめになる」
なんでもない事のように言い放つ。
鹿の子は驚いて、思わずとり憑いてしまった。
白菊の手は、いつもどおりに淡雪を撫でている。
あまりにいつもどおりの動きだった。
発した言葉の残滓も無い。
白菊姫の心の中には何も無かった。
だが、全てを押しのけ押しつぶす圧倒的に濃密な何かに満ちていた。
周囲の人間たちを畏怖させるものの正体がそれだろう。
おそらくは 闇。
しかし、まだ何かがある。
奥底に押しつぶされてなお、火事場の熾き火のように燃えるものが、封印を解こうと悶えている。
見極めようとしてとどまった鹿の子は、濃密な闇に取り込まれそうになった。
抜けなくては危ない気がする。
が、出口が見えない。
技を使いすぎたのだろうか。
短期間に続けて使ったのは初めてだった。
気をつけなくては……。
必死に出口を探した。