三
次第に目が慣れてきた鹿の子は目を見張った。
はじめは若い女に見えた。
薄暗がりの中でさえ浮き立つほどに白い肌のその人の顔は、長い黒髪に縁取られ、はっとするほどに美しかった。
白地に楓の葉を散らした模様の袿を肩から羽織っている。
楓葉の模様は、明るいところで見たらさぞ鮮やかな緑色をしていることだろう。
右肩に近い一葉だけがほんのりと紅葉して、一部が暗い赤に見えた。
立ち姿も艶やかで美しい女人に見えるが、先ほど聞こえた声は明らかに男の声だ。
他に人がいない以上、この人物の声に違いない。
「誰?」
「鹿の子」
再び問われて、鹿の子は久しぶりに名を口にした。
土岐野も五葉も名前を呼ぶことは無い。
昨日などは、五葉に『影さん』と呼ばれた。
自分の名前が懐かしかった。
「鹿の子……姉上に、今は、お屋形様と呼ばれているのだったね。
そう、まるで、生き写しだ」
「そんなに似ていますか。でも、すぐに気がつきましたよね」
「動きがまるで違う。それから、雰囲気も……」
自分がお屋形様の身代わりにされようとしていることは、気がついていた。
小言の合間に『お屋形はそんな無様なことはなさらない』、と土岐野の口から出たことがあったのだ。
何故そんなことをするのか理解できないながら、それでも毎日小言に耐えて練習したのに、まるで違うといわれたことは、少しがっかりだった。
「姉上と仰るところを見ると、お屋形様の弟君なのですね」
「屋敷に居ながら聞いていないのか。
忘れられているらしい。すでに居ないことになっているのやも知れぬ。
白菊の弟、紅王丸だ」
紅王丸は、うっすらと微笑んだ。
しかし、その笑顔が寂しそうにしか見えない。
「何をしに此処へ?」
問われて、鹿の子はやっと思い出した。
「鴉に大事な簪を盗られて、追いかけたらこの中に入りました」
鴉は、紅王丸の足元に居た。
「寿々芽が運んできた簪は、そなたの物だったか」
「いえ、すずめではなく、鴉です」
紅王丸は戸惑った様子で、足元の鴉を見る。
「この鴉に名を付けた。寿々芽という名では、おかしいか……」
「はい。ややこしいと思います」
鹿の子の返事に微笑んだようにも見えたが、やはり悲しい顔にしかならなかった。
「もう、付けてしまった。……どうしよう……寿々芽」
まるで相談するかのように鴉に目を落すと、カァーッと返事が返った。
自分の名前が気に入っているらしい。
名前を変えるのは手遅れだ。
紅王丸は格子戸に近づき、間から簪を差し出した。
「すまなかった。寿々芽はこういう物が大好きなのだ」
近くで見ると圧倒されそうに美しい。
簪を受け取った鹿の子はすぐに立ち去る気にならず、簪を もてあそびながら訊いてみた。
「あのう、男の方なのに何故袿を?」