一
翌日から、土岐野が付きっ切りで、挙措動作の訓練が始まった。
動きに慣れないうちはと小袖に切り袴、薄い袿を一枚着せられていたが、鹿の子には、それでもお姫様になった気分だった。
「だらしない歩き方をしない! 背筋を伸ばしなさい」
何も考えられない鹿の子は、土岐野の言いなりだ。
「新参者の兵でもあるまいに、元気良く行進してどうする。しとやかに歩くのだ」
しとやかがどういうことかが分かっていない。
「顎を引け。歩幅は小さく。ドタドタと音を出すな。
両手を振らんでよろしい」
言いたい放題に叱られるが、体がうまく動かない。
初めて注意されることばかりで、軽業とは大分様子が違う。
立ったり座ったり、歩いたり、を一日中繰り返し練習させられた。
食事の時も、箸の上げ下ろしまでうるさく注意され、お小言の食いっぱなしだ。
「大口を開けるな。かき込むでない。箸を短く持つな。もっと長く使うのだ」
鹿の子は元々器用な性質ではない。
いくら叱られても、上達する気配は遅々として進まなかったが、訓練に追い立てられているうちは、何も考えなくて済むのが有り難かった。
朝、起きたばかりでぼんやりしている時などは、楽しかった一座の仲間たちのことを思い出したり、自分自身の頼りない身の上に不安になったりしてしまう。
そんな日々がどれほど過ぎていったろうか。
日差しは日を追う毎に強くなっていったが、鹿の子は日数を数えることさえ忘れた。
日がな一日屋内で過ごし、陽の光を浴びることも無く、湯殿では、糠袋で満遍なく擦りたてられて、肌は透き通るように白くなっていった。
旅の一座の軽業師と思う者は、もはやいないだろう。
そうして幾日も過ぎた日の朝、
身支度をして待っていた鹿の子のもとに、土岐野は現われなかった。
五葉が来て、土岐野はお屋形様の御用があるので、朝のうちは一人で練習しておくように、と言い置いて去った。
鹿の子に与えられた部屋は、白菊の部屋に廊下で繋がっている。
かなり近い。
逃げ出さないと判断したのだろう。見張りも特に付かなくなった。
うるさく指図されたからやっていたに過ぎない。
自分からしたい訳でも、使命感がある訳でもないことを一人でやっておけと言われても、進んでなんかやりたくない。
鹿の子は気が抜けて、ひざを抱えてぼうっと庭を眺めていた。
何処からか鴉が一羽舞い降りた。
右の羽根に赤い色が見える。道中で見かけた鴉と同じだ。
よく見ると、赤い物が付いている訳ではなかった。
一枚だけ赤い羽根が混じっている。
目の速い藤伍も、さすがに羽根が赤いとは思わなかったのだ。
みんなと山道を歩いたことが、遠い昔の出来事のようだった。
鴉は庭から鹿の子を眺めていたが、恐れる風もなく廊下に上がってきた。
ずうずうしい奴だ。
それでも身動きをしない鹿の子を気にすることなく、部屋の中にまで入る。
部屋の中を物色するかのようにうろつき、いきなり鴨居に飛び上がった。
「あっ!」
鹿の子は、そこに来て、やっと慌てて立ち上がり追い払おうとしたが、時すでに遅し、鴉は隠してあった紫苑の簪を咥えて庭に逃げた。