(一)
市電停留所から、坂を上がって徒歩三分。
三階にある部屋の窓からは津軽海峡を一望出来て、玄関を開ければ函館山が覗く。
エアコン完備、権利金・敷金無のワンルーム、築二十五年で家賃は三万円。
難点を挙げるとするなら、壁と床が非常に薄く、階下の住人のクシャミさえ聞こえてしまうことくらい。
それ以外は、手入れの行き届いた良物件だと感じていた。
函館・あけぼの町の、あかとき荘。
住人同士の交流は皆無だけれど、それも『イマドキ』というやつで気にならなかった。
長く暮らしていけそうだ――そう思っていたのが、今から二十分ほど前のこと。
(一) 青山 皐月
「立ち退き、ですか」
「半年前に通知していたんですが」
「……半年前に、引っ越してきたんですが」
「ああ、それは期間限定の契約だ。『それで良ければ、この値段』という提示だったはずです」
老朽化に伴う取り壊しが予定に組み込まれていたため、一年ほど前からウィークリーマンションタイプの賃貸契約も始めていたのだと、四十近くの銀縁メガネのスーツ男は言った。
北海道函館市、縁もゆかりもないこの土地へ引っ越して約半年。
新緑の季節から夏祭りを通り過ぎ、ちょっと早いんじゃないかと思う秋風の吹く時期の事であった。
寝て起きるだけのような扱いで、新聞なんて取っていなかったし引っ越し先は家族にさえ伝えていないから手紙はくだらないダイレクトメールだけであろうと、郵便受も開けていなかった。
「お電話へも、何度か連絡を差し上げていたのですが」
「そういえば一時期、見覚えのない番号から繰り返し着信があって、気持ち悪くて着信拒否をしていましたね……」
「それです」
「それですね」
淡々とやり取りをしながら、さてどうしたものかと私は考える。はらりと落ちてきた黒髪を、煩わしくかき上げた。
「今からでも、手続きは何とか……。同経営者の賃貸物件がこちら、同地域ですと他者になりますがこちらに」
「やだ高価い」
最低六万円から…… いや、ここが安すぎたことは承知している。だから飛びついたのだ。
思わず呟くと、そう離れていないところから笑い声が聞こえた。
ムッとしてそちらを見れば、二十歳かそこらの小娘が、カラフルなキャリーケースを片手に肩を揺らしていた。
「……そちらの方も、同じく?」
「ええ。それと、もう一方が連絡付かなくて……」
くたびれきった風に、銀縁メガネがぼやく。
(御同輩か)
ああ、そんなに若いうちから濃いメイクなんかしちゃって。五年後に、確実に泣きを見るわね。
髪だって自分で染めたのでしょう、傷んじゃって目も当てられない。
綺麗な毛先のカールや爪の先に気を配っていても、せっかくの素材を自分から潰しているようなもの。
私の視線に気づいたのか、小娘は顔を上げると会釈を返した。いかにも形式的な、中身のない動作。
(これだから、若い子は――)
こんな状況で、初対面の小娘相手に苛々していたって仕方がない。八つ当たりでしかない。
「いかがいたしましょうか、青山さん……青山 皐月さん」
改めて呼ばれて、私は唸る。
交通の利便性を含め、このアパート以上の物件は、やはりない。
引っ越し前に、ネットで調べつくしたのだもの。相場は知っている。
「出席番号、常に一番ってお名前ですね」
横から、小娘が笑いながら言葉を挟んできた。
「……それが、何か」
「若菜は常にハンパだったから、羨ましいなって思っただけです」
(一人称が自分の名前で許されるのは小学生までか高校野球漫画のマネージャーだけだと知りなさいよ)
胸の中にぐっと込み上げてくる感情を、私は静かに押し戻す。
「若菜さん…… 上のお名前は?」
「早瀬ですー。早過ぎるの『早』に、瀬戸際の『瀬』で早瀬」
「お似合いですね」
「よく言われます。青山さんは、五月生まれで『さつき』さん?」
「難しい方の『皐月』です」
「ああ、競馬の『皐月賞』! わかりますー」
やだ殴りたい。
三度目。胸の中にぐっと込み上げてくる感情を、私は静かに押し戻す。
「早瀬さんも、立ち退きを今になって報せを?」
「ですねー。若菜、ずっとバイトで出っぱなしだったから帰ることも少なくって。わかってたら彼氏と別れなかったのになー。タイミング悪ーい」
知るか。
「え、あれ、楠木さん、どうしたんですか」
「日高さん!」
軽自動車が近くに停まり、ウィンドウを下げて若い男が顔を出せば、銀縁メガネが助かったとばかりに顔を明るくした。
「ようやく捕まった……。あかとき荘は明日から解体工事へ入りますので、あと三十分で荷物を纏めて退去の準備をお願いします」
面倒なので、三人纏めて今後の話をいたしましょう。
銀縁メガネ――不動産会社営業担当の楠木氏は、泣きそうな面持ちでそう告げた。
青山 皐月。二十九歳、暫定フリーター。暫定というのも、こちらで今年の秋からオープンするカフェの新規スタッフとして就職が決まっているからで、それまでの繋ぎとして短期アルバイトをしている。
早瀬 若菜。二十歳、フリーター。高校中退で、それからずっとアルバイトで食いつないでいるとのこと。二十歳を機に、一人暮らしを始めたものの。
日高 大地。三十五歳、レンタルビデオチェーン店勤務。深夜勤務が多く、日中は火事が起きても目覚めない自信あり。
以上、あかとき荘の残存勢力。要・立ち退き。しかして行く宛は無し。
「困ったねぇ」
大家さんまで駆けつけて、近くのカフェスペースで唸る始末。
好き好んで迷惑を掛けたいわけではないけれど、引くに引けない事情は様々。
「カフェさえオープンすれば正社員として給料が出ますので、紹介いただいた物件へ引っ越すことも可能ですが……」
「あれ、そこって昨年の秋にオープンって広告出てた店じゃないですかー? 良い場所だけど、前の建物の取り壊しさえされてないですよねー」
「……」
痛い。しかして早瀬さんの言葉は事実だった。
この春に、この夏に、この秋に…… オーナーという人のオープン予定は、ずるずると延長している。
それまでの間、バイトを斡旋してくれるという話だったがそれすら進まず、自分で見つける始末。
「若菜は、ここのお家賃がギリギリだったんですよね……。実家は……帰りたくない事情があるんです」
一転して、しおらしく振舞う早瀬さんへ、好々爺の大家さんは『そうでしたねぇ』とモシャモシャ言っては頷く。
「僕は……店から出る手当と付きあわせると、どうしても……。交通費の面もありますし」
日高さんは身長そこそこの痩せぎす、目つきが悪く古いデザインのメガネを掛けた根暗そうな人だ。初対面の感想ゆえ、失敬。
そも、男性が三十五にして月三万のアパートが限度とはどうなの。
この地域では、そういうものなのだろうか。
求人情報誌でも、最低賃金に驚いたものだけど…… そういう土地、なのだろうか。
(カフェのオープンスタッフで……正規雇用って言っても……知れてるし)
面接段階で提示された給料は、関東の地元で事務員をしていた頃の半分以下だった。
それでも、それなりに貯蓄はあったし贅沢をしようとも思わないし、ひっそり生活するにはいいんじゃないかと考えたのだが。
早瀬さんの言葉も有り、私の心は一気に沈み込んでいく。
(どうしよう)
もしも信用ならない雇用主であったなら、どこかで決断しなくてはならないだろう。
それを思えば、やはり高い物件への引っ越しは気が引ける。
今の勤め先と遠からず……手頃な……
「日高君は、日中はほぼ寝ていて、夜に仕事なんだね?」
「まあ、ざっくり言うとそんなシフトが多いですね」
「早瀬さんは…… いつ寝てるんだい?」
「えっとぉ……早い時は四時に帰って来て、九時くらいまで! 五時間はキープしてますよォ」
「青山さんは、午後から二十二時頃までのお仕事だそうだね」
「あ、はい……帰宅が、それくらいの時間です。……今は」
「ふむ、だったら」
大家さんは大きく唸り、それから音を立てて日本茶をすすった。
「町会館へ、住むかい? あかとき荘として町会費は払ってあるし、あの建物も私の持ち物でね。融通は利くだろう」
町会長たちへも聞いてみないとだめだがね。
町会館……あけぼの町の。
果たしてそれは、どういった建物だったろうか。
北海道函館市、縁もゆかりもないこの土地へ引っ越して約半年。
そういえば、一度も町会館へは足を運んだことが無かったと思い出す。
いずれ不安だらけのこの先において、住む場所が落ち着くというのなら幸運だ。
……かつての私を知る人からしたならば、きっと驚くに違いない。
ずっと、石橋を叩いて尚且つ迂回路を探して渡る生き方をしてきた。
他人と接することは苦手であったし苦痛であったし最大のストレスであってそれが退職の最大要因で。
ただ……、ただ。
二十九歳。
『まだ』やれる。賭けへ出ることができる。
これが最後の冒険だ――。自分へ、何度も言い聞かせてきた。
(三十歳になった自分が何をしているのか想像もつかない人生なんて)
それこそ、想像していなかった。
淡々と、あの会社に勤めているか、誰かしらと結婚しているか……そんなところだろうとボンヤリ想像していたのが霧散したのだから。
『いいところだよ。一度、行ってみるといい』
今は遠い誰かの声が、ふと脳裏によみがえった。
ああ、結局『一緒に行こう』とは言ってもらえなかったな。