先生は失敗から学ばない
ジュンは明日提出の課題がまだ終わってないとかで、学校の寮に帰って行った。そんなわけで部屋には先生と私しかいない。私は先生に聞きたかったことを尋ねた。
「先生も異世界から来たんですよね」
本で散らかった部屋の唯一片付いた場所である革張りのばかでかいソファに腰掛け、ロデスさんが淹れてくれた青いお茶をすする。このお茶、名前はなんのひねりもなく青茶というらしい。ものすごく食欲の減退する色だが味と香りはまあまあである。ラウレンではよく飲まれているお茶であるから、読者の皆様もいつか目にすることがあるだろう。
「ああ、そうだ。八歳くらいの頃にな。あんたのいた世界とは違う世界だったが」
先生は向かい側のソファに座っている。両手を大きく広げ背もたれに載せ足は高々と組んだマフィアのボスみたいな姿勢で、今にも葉巻を咥え始めそうだが、大きな眼鏡ややせぎすの体型との相性は最悪である。
「そもそも私たちはどうしてここに飛ばされてしまったんでしょうか」
「さあな。だがわかってることはいくつかある。ジレア・ミナスに飛ばされてくる奴はいるがジレア・ミナスから元の世界に戻った奴はいない。おれはおれやあんたみたいな立場の人間に百人単位で会ってるが、その全員が未だここにいるかもう死んだかだ」
「……帰るのは絶望的だと、そう言いたいんですか」
「ま、おれはそう思ってるな。そもそもおれは元の世界に帰りたいなんて微塵も思っちゃいないしな。だがおれの話を信じて諦めるのか、信じないで方法を探すのかはあんたが決めることだぜ?」
「では私は諦めません」
「そうかい」
先生は皿に残った数枚のクッキーを鷲掴みにすると、上を向きザラザラと口の中に詰め込んだ。
クッキーを咀嚼するボリボリという音が部屋にこだまする。その音は徐々に小さくなってゆきやがて消えた。
「ふう、クッキーうめえ」
先生は満足した表情を浮かべるとふいに立ち上がった。
「よし、あんたを異世界人保護協会本部に連れてくわ」
「あの、何ですかそれ? ジュンも何か言ってたんですけど」
「何って、そりゃあんた、異世界人を保護する協会だよ」
説明になっていない。
「説明雑すぎません?」
「行けば分かるようるさいなあ。ロデース! 馬車の準備っ!」
「できてございます」
「できてるってよほら行くぞ!」
「あっ、ちょっと待って下さいよ!」
先生は誘拐犯のような手際で私を強引に馬車に乗せた。御者の少年にちょっかいをかけるのも忘れない。
「おいおいペーター、ジュリエッタとのデートでとんでもないヘマやらかしたんだって?」
「ほっといて下さいよ」
「こんど奢ってやっから詳しく話を聞かせろよ! な?」
「やですよ先生それネタにおいらをさんざんからかうつもりでしょ。魂胆見え見えですよ」
「チッ、バレたか」
「ほらもう出発しますから扉閉めて下さい。振り落とされても知りませんよ? 今日のおいらは不機嫌なんです」
「へえへえ分かりましたよう」
ペーター少年の左頬は赤く腫れている。私はジュリエッタとのデートでとんでもないヘマやらかしたらしいペーター少年の苦労に思いを馳せながら、馬車の座席に着いた。
馬車の中で先生はずっと、あの汚部屋から持ってきたらしい本を読んでいた。
「初めて乗ったんですけど、馬車って結構揺れますね。本なんか読んで酔わないんですか」
「おれは天下の大魔術師様だぜ? 本読んだくらいで酔ってたまるかってんだ」
「おえっ……」
三十分ほどの時間が経ち、馬車は停まった。先生は窓を開けてさっき食べたクッキーの残骸を吐き出している。
「おれは天下の大魔術師様だぜ? 本読んだくらいで酔ってたまるかってんだ……でしたっけ?」
「ごめんマジできつい。背中。背中さすって!」
「あー、はいはい」
「うっぷ、お、おえええええ」
鼻呼吸から口呼吸に切り替え、びちゃびちゃと地面に落ちる液状の何かから目を背けながら、私は先生の背中をさすった。もらってしまっては堪らない。
「あ、先生また馬車の中で本読みましたね? いい加減学習して下さいよ」
ペーターが呆れ顔で馬車の扉を開けて言った。
「取り敢えずおいら水貰ってきます」
ペーターはそう言って駆け出した。
「先生、いい大人が馬車の中で本読んで気分悪くなって吐くっていうのは、かなり恥ずかしいですよ?」
「お、おべろろろろろ、ぐっ……うげえええ」
何だかふざけているのかと思いたくなるほど変な吐き声(?)であるが、かなり本気で切羽詰まっているらしい。
「うぐっ……はあはあ……」
「先生、水持って来ましたよー」
ペーターがそう言って差し出した水を無言でひったくると、先生は一気にあおった。私とペーターは「ああ、一回うがいしないと汚いですよ……」と呆れながらその様子を見守る。
「ぷはー! 生き返ったあ!」
「よ、良かったですね……」
こんなのが国一番の魔導師で王様に信頼されているのか……。私はラウレン王国の将来が心配になった。
「さーて、協会に殴り込むぜ」
先生はさっきまでの失態など無かったかのように、元気に腕など振り回している。
「何言ってんですか、意味わかんないですよ」
「何だよノリわりィな。秘書なら上司の冗談に付き合えよー」
「そのようなことは秘書の業務内容に含まれておりません」
そんな風に下らないことを話しながら協会の前庭の道を歩いていると、前から歩いてきた女性が先生に声をかけた。
「あらぁ、先生じゃありませぇん?」
豊かな赤毛を複雑な形に結い上げ、胸のあたりが大胆に開いた真っ赤なドレスを着ていて、ずいぶんと色っぽい女性だ。
「ひ、人違いではございませんかね、ご婦人」
先生は随分と居心地悪そうにしている。
「勘違いなんかじゃないわよぉ、ユーフィーミアのこと忘れちゃったのぉ? 先生ってば変なのぉ」
「ああ、ゆ、ゆーふぃーみあさんでしたね、おれ、急ぎますんで、じゃあ」
「あらそうでございましたのぉ? 残念ですわぁ、また近いうち事務所の方に伺いますわね、せ・ん・せ。フフッ」
ユーフィーミアさんはあらん限りの色気を振りまくと立ち去り、後にはむせ返るような薔薇の香りだけが残った。
「先生、あの方お客さんでしょ? お客さんにああいう態度はどうかと思いますよ」
「う、うるさい! おれはああいう色気の塊みたいなご婦人を見ると蕁麻疹が出るんだ! だいたいあの人結婚して子どもまでいるんだぞ? おかしいだろ」
「あー……あの人結婚してるのにあんななんですか……旦那さん苦労してそー」
「あのさあ、さっきからやけに年増みたいな口を利くけど、あんたほんとに十六歳か? 詐称してんじゃねえよな?」
「年の離れた姉がいるんで」
「ああ、そう……」
「さ、行きますよ」
私たちは協会の建物へと再び足を進めた。