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異世界に飛ばされるのはおっちょこちょいであるらしい

 さて、物語を始めるのならやはりあの日のことから語るべきだろう。あの日というのは当然私がラウレンに飛ばされてしまった日、つまり人生最大のヘマをやらかした日のことだ。

 とはいえ私がラウレンに飛ばされてしまったあの日、特に劇的な出来事や特別な予兆らしきものなかった。雷鳴轟き雨粒叩きつけるような天気でもなければ(あの日は九州の冬にはありきたりの乾燥した晴れの日だった)、犬やカラスがやけに騒ぐということもなかった。靴紐も切れなかったし、黒猫も目の前を横切らなかった。そう、まったくありきたりで、ページを割くのも申し訳なくなるような日だったのだ。

 あの日もいつもと同様私は下を向いて歩いていた。アスファルトは前日の雨によってうっすらと湿り、至るところに水溜りが出来ていた。踏めば靴や靴下をぐっしょりと濡らすであろうそれらを用心深く避けながら、私は学校に向かっていた。その日は月に一度の全校集会のある日で、生徒会役員たちはいつもより一時間早く登校し準備をする必要があった。

「百合香さん」

 後ろから、私を呼ぶ声がした。男の子の声だ。真面目でどちらかと言えば地味な私を下の名前で呼ぶ男子は彼しかいない。私は振り返り、声の主の名前を呼んだ。

「月森くん、おはよう」

 案の定そこには月森くんが立っていた。月森はじめ、私のクラスメイトであり生徒会長を務めている男子だ。

「おはよう」

 月森くんはその人懐っこい笑みを私に向けた。私も軽く笑いかける。

「原稿、書いてきた?」

「ばっちり。と言っても、どうせ本番見るつもりはないけどね」

 月森くんはそう言って鞄をぽんぽんと叩いた。小中高と生徒会長を務めているためか月森くんは本番慣れしていて、原稿を読み上げると却って緊張するからと、スピーチのときは何も見ずに話していた。当時の私にはそれがとても大人びて見えたものだ。

 私と月森くんは、他愛のない話をしながら学校への道を歩いた。私は下を、月森くんは前を向いて。

 私はふと立ち止まった。地面に広がる水溜まりの一つがとても気になっていた。その水溜りだけが他とは違って見えたのだ。

「百合香さん?」

 数メートル先で、月森くんの声がした。アスファルトを擦るざりっ、ざりっという音。たぶん立ち尽くす私を見た月森くんが近づいてきたのだ。

 しかしながら、私は水溜りから目を離せないでいた。一体それのどこが他の水溜りと違うと感じたのだろう。分からない。でも確かにそれは他とは明らかに違っていた。たまらなく足を突っ込んでみたくなるような水溜りだった。私は濡れるのも構わずにその水溜りに右足を突っ込んだ。


 そしてその瞬間、世界が、そして私が裏返った。


 私の貧弱な語彙では異世界へ飛ばされるあの感覚を「裏返った」としか表現できない。しかも、その言葉でさえ適切であるとは言えない。あの日から今までもっとしっくり来る言葉を考え続けているが、思い浮かばないので暫定的にそう表現しているに過ぎない。たぶんどんな言葉で説明したとしてもあの感覚を他者に伝えることは不可能なのだろうと思う。

 その後私は異世界からジレア・ミナスへ飛ばされてきたたくさんの人々(地球出身の人もいれば全く知らない世界出身の人もいた)と出会ったが、彼らにあの時の感覚を尋ねると返ってくる言葉はまちまちだった。

 ズキズキと痛かった者、自分が雑巾になって絞られたように感じた者、言いようのない快感を得た者(彼はそれをひどく恥ずかしそうに教えてくれた)、この世のものとは思えない美しい歌声を聞いた者、よく覚えていない者……。一言で異世界に飛ばされると言ってもその感触は千差万別のようである。


 異世界へ飛んだあの瞬間に話を戻そう。

 世界が、そして私が裏返ったような感覚を覚えた直後、もちろん私は自分の身に何が起こってしまったのか理解できずにいた。今までに感じたことのない「裏返る」感覚がして、アスファルトではないむき出しの地面が足元に現れた。私は訳が分からず前に視線を遣った。さっきまでいたはずの月森くんはいない。

「え? あれ?」

 私は周囲を見渡し、そして見渡したことを後悔した。そこには私の全く見たことのない光景が広がっていた。

 どう見ても日本人ではない、中世ヨーロッパ風のえらく古風な衣装を来た人々。

 某テーマパークで見たような西洋風の家屋。

 荷馬車。

「何これ? え? 何なのこれ?」

 日常にあってしかるべきもの――コンビニや自動車、電柱――を求めて、私は必死であたりを見回した。

 そんなものは無かった。無残なほど、徹底的に、何一つとして。

「ああ、ああ……」

 私はまたしても下を向いた。足元に広がるのはやはりアスファルトではなかった。私は混乱の極限に達した。その場に座り込む。

「いくらなんでも夢よね、うん、夢、夢」

 ぶつぶつとつぶやきながら自分の世界に没入していた私に、誰かが声をかけた。野太い男の声で、何語かは分からないが少なくとも日本語でも英語でもないことは確かだった。

 顔を上げるとそこに立っていたのは羆の如きむくつけき大男で、私はたちまち恐怖に襲われた。

 知らない場所で知らない外国人男性(しかも何だか怖そう)に知らない言語で話しかけられている。ちなみに私はインドア派のひょろい女子高生。これはかなりまずいのではないか?

 私の心臓は痛いほどに早鐘を打った。今すぐ立ち上がって逃げなくては。頭の中でそんな言葉が聞こえたが、腰が抜けたのか立ち上がれなかった。

 男が私の腕を掴んだ。誘拐されて人買いに売られて果ては奴隷か臓器売買か。そんな物騒な考えが頭を駆け巡る。

 ところが男は私を立ち上がらせると「ここに座れ」と言わんばかりに近くにあったベンチを示した。私はまだ恐怖を感じていたが、取り敢えず指示された通りにベンチに座った。満足したのか何なのか、男はどこかへ立ち去った。

 私はベンチに座ったまま、そこから見える景色をただぼーっと眺めていた。道行く人は時折私を見て驚いた顔を見せたが皆すぐに立ち去って行った。私のセーラー服は彼らの服装から浮いている。それでも皆私に無関心なのだからやはりこれは夢なのだろう。

 そんなことを考えていた私の耳に、聞き慣れた、そして今もっとも聞きたい言語が聞こえてきた。要するに日本語である。

「やあ、君かい? 異世界から飛ばされて来たっていうのは。オーソンさんから頼まれて来たんだけど」

 聞き慣れた言葉ではあるが言っていることは聞き慣れない。というか現実離れしている。声のした方を向くと自分と同じ位の年頃の少年が立っていた。

「オーソンさん?」

「ちょっと強面のおじさん。地面にうずくまってた異世界人っぽい女の子を起こしてベンチに座らせておいたって聞いたけど、君じゃなかった?」

「異世界人っぽいっていうのはよく分からないけど強面のおじさんに起こされてベンチに座るよう促されたのは私」

「ああ、やっぱり君か」

「……あの、あなたは誰?」

 黒い髪に黒い目、私と同じ色の肌。かなりはっきりとした目鼻立ちをしているが見た感じ日本人だし、日本語も流暢だ。しかし彼の格好は奇妙だった。映画で見たことのあるイギリスの寄宿学校の制服みたいな三揃いの上に、魔法使いのようなローブを着ている。

「僕は新名ジュン。たぶん君と同じ立場の人間だよ」

「どういう意味?」

「地球の日本で生まれて、ジレア・ミナスのラウレンに飛ばされて来たおっちょこちょいって意味さ」

「ジレア・ミナス? ラウレン?」

「ジレア・ミナスはこの世界の名前だよ。ラウレンってのは国の名前。正式名称はラウレン王国。ここはラウレン王国の首都クラトノットで、この世界で一番発達した都市でもある」

 さっぱり意味がわからない。私の頭の中ではクエスチョンマークが飛び交っていた。

「混乱してるみたいだね。気持ちは分かるよ。僕も最初ある人に同じことを言われた時、その人のことを頭がおかしい人だって思ったもんさ。まあ僕が飛ばされてきた時は十歳と幼かったから、すぐにこの世界にも順応したんだけれどね」

 少年は当時のことを思い出したのか勝手に私の隣に腰掛けると遠い目をした。

「ねえ、異世界ってどういうこと? ここは地球じゃないの?」

「そのまんまの意味さ。君だって薄々感じてはいるんだろ? ここは自分の住んでた日本とは全然違うって。それどころかね、ここは地球ですら無いんだ。だっておかしいだろう? まるで映画やなんかで見る中世ヨーロッパみたいな街並みだし、車も走ってないし、電気さえ通ってない。そう、ここは僕達の生まれた地球とは別の世界線に存在してる。そのへんの話をするとものすごく長くなっちゃうから今は話さないけど……」

 つい一時間ほど前に朝食を食べて三十分前に家を出た。それなのに今いる場所はジレア・ミナスのラウレン王国首都クラトノットとかいう見たことも聞いたことも無い異世界だという。もしそれが本当ならとんだ大冒険である。今日は全校集会があって学校を休むといろんな人に迷惑がかかるのだが。……そうだ、今すぐ学校に行かなくては。

「ねえ、あなたの言ってることが全て本当だったとして、どうすれば元の世界に帰れるの?」

「おや、まだ僕の話を信じてくれないのかい? 疑い深いんだねえ」

「用心深いだけよ」

「はいはい。まあでも、君みたいに人の話を鵜呑みにしないのは大事なことだと思うよ。それに、聡明な女の子はとってもタイプだ」

「あなたの女の子の好みなんてどうでもいいんだけど」

「気が強いんだね、ますますタイプかも」

 少年はにやにやと笑みを浮かべた。完璧にふざけている。

「からかわないで。どうすれば帰れるのか知ってるの? 知らないの?」

「残念だけど知らないよ。知ってたら六年もここにこうやって残ったりしないさ。まあ、ジレア・ミナスでの暮らしも悪くはないけどね」

「……それもそうね、知ってたらさっさと帰ってるわよね……」

 私はがっくりと肩を落とした。親も知り合いもいない状態でまったく知らない世界に投げ出されて、これからどうすればいいというのだ。

「そう言えば、君はどうやってこの世界に来たんだい?」

「どうやってって……」

 私はついさっきあったことを説明する。

「ふむ、僕の場合と同じくらい格好悪い状況だ」

「格好悪いって何よ、ひどいわね、人が真剣に困ってる時に」

「まあまあ、そうカッカしないで。僕の場合はね、体育の時間に跳び箱を飛び越えて着地してポーズを決めたらそこがジレア・ミナスのラウレンだった。体操服で着地のポーズを決めてる僕を、この街の人たちはじろじろ見てたっけ」

 おどけて言う少年に、私は思わず吹き出した。

「何それ、私よりさらに格好悪いじゃない」

「あ、笑った! うん、やっぱり女の子は笑ってる顔が一番素敵だよ」

 これ以上無いほどの爽やかな笑顔を浮かべて少年は言った。今までこんな男の子は周りにいなかった。そのため私はひどく困惑していた。どうして私と同い年くらいのくせしてこんな歯の浮くようなセリフがぽんぽんと口から飛び出してくるのだ。私は少年の手のひらの上で転がされているのが悔しくて、思いっきり顔を顰めてみせた。

「ねえ、君、これから行く宛はあるの?」

「ある訳ないわ。どうしよう……」

「だよね。ていうか君この世界の言葉すら話せないもんね」

「そうなの、どうやってこの世界の人たちと意思疎通すればいいの? やっぱり言葉を勉強するしか無いの?」

「いや、そんなことは無いよ」

「え、どうして?」

「この世界には魔法があるからね」

「ふうん、魔法……えっ、魔法?」

 何だかとってもファンタジーな用語が聞こえた気が……。

「取り敢えず先生のとこに連れてくよ」

 そう言って少年、ジュンは歩きだした。

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