努力と才能
夕日に照らされた埃はきれいだ。
西を向いた窓から差し込む光に照らされて黄色い粒になっていて、日のあるうちに蛍が飛べばこんな感じになるんじゃないだろうか。棚に積もった埃も隙間風にあおられて子犬の産毛のように揺れている。これだけ埃が舞っていると空気はさすがに埃っぽかったが、美術室の幻想的な夕焼けにはそのくらいのマイナスポイントどうってことなかった。
イオがそんなことを思って窓を見ていると、
「いやぁ」
そんな抜けた声と、パチッ、という音とともに部屋の蛍光灯がついた。
振り向くとエプロンを着た中肉の美術部部長がスイッチを押したところだった。
「モデル引き受けてもらえて本当に助かったよ」
イオの前を通り過ぎ美術部部長は未完成の油絵の前に座った。
「いえ、文芸部誌の表紙を描いてもらってますし、文芸部の部長としてはお手伝いしないわけにはいきませんから。それにもう何回もそのセリフ聴きましたからもういいですよ」
イオは指定されていたポーズに戻り義務的にそう返す。ポーズは本を膝に置きうつむいて読書をしているところで、本当に読書をしてもいいと言ってもらえている。モデル慣れしていないイオが暇をしないようにと配慮してくれたんだと思う。
「そうは言っても一ヵ月も付き合ってもらってるからね。あとちょっとなんだけど、そのもうちょっとが長いんだ。言いつつ二日目に入っちゃったしね」
ちらりと美術部部長の顔をのぞき見る。
「それは……何となくわかります」
イオの顔が一瞬暗くなる。
「小説もそんな感じです。絵がどうなのかは知りませんが、小説を書いていると途中で消したり書き足したりしたくなる時期が来るんです。で、その時期になると同じ所をぐるぐる読みだすんです」
静かにページをめくる。
「その時期は自分が嫌になります」
言ったあとに、少しセンチメンタルすぎたなと、イオは苦笑したが、美術部部長は笑わなかった。
「なるほどね」
なにがなるほどなのか意味がわからない一言は、のらりくらりしたこの人らしいなとも思った。
しかし、一方で笑わなかったことが意外でもあった。
終始話し相手を自分の間合いに近づけない癖が美術部部長にはある。モデルをしていたこの一ヵ月、わたしの過去や、美術部部長の過去、自分の領域に入りそうな話は笑い話に変えて決して真面目には話さなかった。
それが今日はどうだろう。すんなり通してくれた。
再度、美術部部長に目を向ける。
「……うん?」
彼は気が付いて、手を止めた。
「あまり動かないでね。デッサンが終わって、色塗りも仕上げとはいっても、やっぱり日の当たり方が変わっちゃうから」
微笑んでそういう。
「ごめんなさい」
いつも通りの美術部部長に戻っていた。
気のせいだったかな、とイオが一瞬思ったとき、美術部部長が切り出した。
「小説好きなの?」
「はい?」
突然の問いに注意を忘れてイオは体を捻って美術部部長のほうを向いてしまった。
「だから、動かないでって」
苦笑いしながら、手で制する。
「すみません」
イオが定位置に戻ったのを確認してから、美術部部長が口を開く。
「いや、僕が言うのもなんだけどね」
パレットの油壺に溶き油を注ぎ足す。
「部長なんて物好きがするものじゃない? だからさ、小説が好きなのかなって。もちろん、書く方でだよ」
確かにイオは部長に立候補してなった。誰かに諭されたからというわけではなく、周りの雰囲気に流されて成り行きだったが自分から名乗り出た。だから強い使命感はなかった。でも使命感とは違うが、同期の中でぜったいにこの部活をやめないのは自分だけだろうな、という変な自覚があったのだ。
確かに不思議な話だ。自分では小説は読むほうが好きだと思っていた。でも、読むのが好きで書くのが嫌いなら、文芸部をやめるどころか、入ってすらなかったと思う。
好きなのだろうか、小説を書くことが。
「わからない?」
優しい口調で美術部部長が口をはさんだ。
「そういうあなたはどうですか?」
こういうのは卑怯だな、とわかりつつイオは自分を棚に上げて質問で返した。
「僕? 僕は絵を描くのは大好きだよ。小さいころからいろいろ考えて描いてたしね。ほら、ちっちゃい子って飛行機を十字に描くだろ? 僕ね、あれが変だと思って、一人だけT字に飛行機描いてたんだ。横から見たら羽根は一個しか見えない~、ってね。でも今思うと、斜め下から見たら、十字だよね」
楽しそうに美術部部長は笑った。いつもの誤魔化し笑いではなく、本当に楽しそうに笑っている。
「まあ、でもね」
笑った余韻を残した明るい声で言う。
「僕には才能がないよ」
笑顔をみるみる苦笑いにしながら、美術部部長は続ける。
「黒板の右手側に授業作品の絵が飾ってるんだけど、ちょっと見てくれない? ああ、動いてかまわないから」
首を上げ、指示された位置を見ると縦に2列計6枚の絵画が飾ってあった。各々好きな題材で描いたのか、テーマがバラバラで統一感がない。
「その一番上の列の君から見て一番左に飾ってあるのが僕の絵だよ」
いつの間に道具を置いて美術部部長がイオの隣に立って指差した。
一番上のイオから見て一番左の絵はいわゆる「美人画」だった。
浴衣ではなくしっかりとした着物を着て、腰まであるきれいな黒髪をゆったりとたらし、少し左に身体をずらして椅子に座る女の人。微笑むでもなく無表情に、顔はこっちを向いておらず、光が瞳に射しているのにどこか暗い印象を受ける。虚空をまっすぐに見つめる姿はどこか生気を感じさせなかった。
「どう? 人間というより人形でしょ?」
言われて納得する。たしかに人形のようだ。
「これでも苦労したんだよ」
美術部部長は言いながら、腕を組んだ。
「僕は人間を描いたつもりなんだ。しかもかわいいね。工夫だってしてるよ? もともとは微笑んだ顔だったんだけど、笑うとさらに不気味でね。結局無表情に描きなおしたんだ。で、描き上げてみれば大きい日本人形になってた」
確かに、苦悩のあとが絵画にも出ていた。塗っては重ね塗っては重ねして色をさがしたのかいたるところに塗り重ねのあとが残り、気に入らないところに何度も落とし油を使ったのか油絵にはめずらしい絵の具のにじみもところどころ出ていた。普通、時間をあまり費やさない学生の作品でここまで塗り重ねやにじみが出ることはない。早朝や放課後、昼休みにさえここにきて描いていたのかもしれない。
描いては描き足し、描いては消し、それを繰り返したのかもしれない。自分が気に入るまで、求めたとおりになるまで。
その姿はイオにはとって簡単に想像できる姿だった。
「この絵。納得できたんですか?」
美術部部長はすぐには答えなかった。
掛け時計が秒針を十ほど鳴らしてやっと、
「全力は尽くしたよ」
力なくそう答えた。
実質的な敗北宣言。才能に努力が負けたのだ。
努力を重ねても才能以上の作品はできなかったのだ。
イオは知らず知らずに胸の前で握り拳を作っていた。
「だから、君の絵で最後なんだ」
「やめるんですか、絵」
「言わなかったっけ?」
「初耳です」
お礼は何回も言ったのにね、と美術部部長は腕をほどいた。
「美大に進まないんだよ。とりあえず親の言うとおり社会福祉に進もうかと」
「本当はいきたいんですか?」
「うん? 美大? そうだね、まあ、絵が好きだからね」
そう言うと彼は道具を片付け始めた。
イオは少し驚いて本を閉じる。
「今日はもう終わりですか?」
「ううん。完成だよ」
「いつのまに」
「だから、あとちょっとって言ったじゃん」
「長いとも言いました」
「あとちょっとって言いつつ二日描いてたんだ。ちょっと、にしては長いでしょ」
油壺を閉じ、落とし油で筆を洗い、片付けていく美術部部長の動きに無駄はなかった。長年繰り返してきた動作独特の速さのない的確な動き。イオはすこし彼が絵をやめてしまうのがもったいない気がした。絵を見るよりも片付ける動きを見てそう感じてしまうのは失礼なことかもしれないが、絵よりも明確に彼の絵にかけた時間を表している。ここでやめてしまうということは、そのかけた時間をまるまる溝に捨ててしまうようなものだ。
だけど、やめないように言う気にはなれなかった。
ここでやめなかったら、逆に才能のなさをこれからも身に刻み続けることになる。
それをよしとするかは結局本人の判断であって、絵のイロハもわかってないイオが言うべきことではない。
「先に帰っていいよ。お疲れ様でした」
美術部部長は片付ける手を休めた。
「今までありがとね」
「いえ」
イオは立ち上がり本を鞄に入れ持ち上げた。
モデルのイオはこれで片付けは終わり。あとは帰るだけだ。
イーゼルを持ち上げて指定の位置に戻す美術部部長を背にドアノブに手をかけた。
そこでふとイオは思い立ち、美術部部長に振り返る。
「わたしの絵は満足できましたか?」
美術部部長が顔を向ける。
葉が落ちる程度の間考えて、彼は苦笑いを浮かべた。
「前のよりは満足ができたよ」
それを聞いてイオは軽いあいさつだけをして美術室を出た。
スランプ中に感じたことすべてイオと美術部部長に語らせました。美術部部長はイオの内面です。もし気になればもう一度読んでみてください。また違ったこの作品を見られるかもしれません。