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neophobia

 早瀬との面談のその翌日から、早速エシュは対象の尾行を開始した。

 しかし尾行とは言ったものの、対象者こと日向 葵の自宅の扉を見張っていたが、実際に彼が家の外に姿を現したのは、開始日から2~3日も後の話だった。

 既に時間も普通の会社の始業時刻などとっくに過ぎたあたりで、太陽もすっかり高くなっていた。


(典型的な引きこもりじゃねえか……)


 エシュの頭の中には、相手がどんなバックボーンなのかなど考えに入っていない。

 完全に対象者を「ただの引きこもり」としか認識しておらず、その一方的な判断のもと、知らず知らずのうちに葵を敵視し始めていた。


 日常の喧騒に逃げ隠れして生きている、唾棄すべき小心者。

 仕事がない事で金のない苦しみも知らず、逆に、仕事があることで汗水たらして上司に小突かれて薄給を得る惨めさをも知らず、そのくせのうのうと生きている横着者、いや“種族”。

 それがエシュの中で凝り固まっている引きこもり像であった。


 彼は、社会がそんな種類の人間達に手を差し伸べ生き延びさせようと働きかけることは間違っていることであり、労働し稼ぎ納税を怠らず、それでも資本主義的社会の中において無個性な大衆として、搾取の対象としての扱いをされるばかりの「一般市民」に対してこそ、この世界は公平であるべきだと思っていた。


 残念ながら、悲しいまでに彼は「元」警察官であった。賞金稼ぎに身をやつした今であってもなお、法の番人としての視点を抱いたまま生きていた。

 彼は犯罪を犯さねばならない理由というものに興味がなく、そして同様に「一般的生活」を送らない人生を選択する理由にも、全く興味は持てなかった。

 彼は「普通に生きていないもの」に対しては不寛容であり、それら「普通に生きていないもの」こそが犯罪を犯すのだと、ある種の脅迫的感情を伴いながらそう思っていた。


 葵はどうやら目的があって外に出たようで、市街でも特に大小様々な商店や露天商が軒を並べる区域を目指し、まっすぐ向かっている。

 街の風景は、通勤ラッシュはとうに終わっており、あわただしさから解放され落ち着きを取り戻していた。

 そろそろ商店や飲食店が客を迎え入れ始める時間帯であり、労働者同士がせかせか我先に仕事場へと向かっていた早朝の風景とはまた違う、客向けの柔らかな活気で満ち溢れていた。

 とても同じ街に闇社会だのなんだのと後ろ暗いものがあるとは思えない光景だ。


 アーケード状に低い屋根を付けた程度の造りをしているマーケット場の中でも、鮮度が命の商品を扱う店舗は人の目が留まりやすく出入りもしやすい場所に陣取っていた。

 マーケットの中でもその辺りは人の往来が多く、そのためエシュにとっては人々の影にまぎれて対象者を観察するには不都合がなかった。

  対象者の目当ては日用雑貨や食料品の類だった。まあ、カスミを食べて生きていない限り、押し並べて人類全てに必要である、ただの買い出しだ。


 ただ、その他人から、こと女性からは好ましい外見をしているようで、店のおばちゃんに「あんたもっと食べなさいよ!」と絡まれている。

 気の毒なことに、それは行く先々の店においても同様であった。

 しばらくの押し問答ののち、対象者も彼女たちの強引なまでのおまけ増量攻撃に根負けしたらしく、買い込んだ野菜は、当初に予定していただろうと思われる分より相当膨れ上がっていた。

 どうも彼は母性というものをくすぐるらしい。


 そういえば、こうして出歩いている今もそうだが、依頼主から提供された資料の写真の中でも彼のファッションは常に長袖着用だ。

 めぼしいバリエーションがあるわけでもない。派手な色柄のものはチーフ一枚カフス一つすら見られなかった。

 更に髪の毛は長く、伸ばしっぱなしで、色は灰色。そんな色の髪など若い白人ではさっぱりお目にかかったことは無い。

 黒髪ばっかりのアジア人の中ではことさらに異質である。


 外見も異質であったが、より異質だったのは彼の住まいであった。


 話は少し前のことに戻るが、依頼主の情報収集力は一体どうしたと言うのか、むしろエシュに依頼を持ち込むよりも、己の手で解決策をひねり出して持って行った方が、よほど効率的に話が進んだのではないかと思うほどの事実を、彼はいきなり突きつけてきた。

 よりにもよって、彼の指示した監視対象はエレグア・グラムの居室のすぐ真下に住んでいる、というのだ。

 そこまで知っているならなぜ、赤の他人に甥を任せるのだとも思ったが、目の前の収入のことを考えると、無気に断るのは得策ではなかった。

 それに何よりそこから推察できる状況が、いつか見たサスペンス映画の主人公のようであり、その体験が出来る可能性に興味と好奇心を抑えきれなかったのもある。


 そういった経緯から依頼を受諾したわけだが、その依頼主が提供した情報を頼りに、更には自分の住居がすぐ上の階であるという“特権”を利用して、有事以外は外壁にへばりついているしか能のない非常梯子に協力してもらいつつ、対象者:日向 葵の居室の様子を窓ガラス越しに見てみたことがある。


 それはまるで、何者かに整えられた廃墟の一室、と例えるべきだったのかもしれない。そんな空間だった。


 エシュの部屋と葵の部屋は、間取りは全く同じはずであった。

 家具の配置や部屋それぞれに割り振られる寝室だの書庫だの物置だの趣味部屋だのといった役割が同一とは限らない、という条件を鑑みても、そこにある物はあまりにも少なかった。

 とにかく家具も無ければ道具類もない。そこに存在するのは、備え付けのキッチンと冷蔵庫、そしてただゴミ箱があるだけだった。

 そして、その程度の生活感の無さであっても、人の住みかである以上存在するはずのものが無かった。

 その部屋には人が住んでいる、などと仮に何も知らない他人に言って見せたとしても、撮影用のセットのようだと返答されるのではないか、と思うくらい、気配というものがそこにはなかったのだ。


 ただ、納得はいく。日向 葵という男とその部屋は良く似ている。

 何処を見つめているのか解らない、そんな目だ。


 エシュの頭の中で、住処と住まう者とが不気味なまでに合致していた。ただその事実はエシュに、腹の中に泥が積もりとぐろを巻いているような感覚を覚えさせた。それは酷く不快なものであった。


 ここ数日間で得た情報や様々な憶測を反芻していると、一通りの買い物を終えたらしい葵がアーケードの外へ出た。マーケットの敷地から離れ、来た道を戻ろうとしている。

 また少し陽の高くなった市街を、おまけにおまけを重ねられたそれなりの大荷物を抱え無表情で歩いていく。

 そんな葵を、一定の距離を保ちつつ相手に勘付かれないように、細心の注意を払いながらエシュは追い始めた。


 ふと、尾行されているのも知らないはずの葵が立ち止まった。

 エシュも、その葵の続く行動がどうなるのか予測できなかったが、どうなっても対処するためにも立ち止まるしかなかった。

 それでもただ棒立ちになれば怪しまれる。エシュはとっさに、ガムをうっかり踏んづけてしまった哀れな一市民のように片足を傾け、靴底を見る振りをしながら葵を観察した。

 葵は、己の目の前にあるショーウィンドウに目をやっていた。そしておもむろに、そこにはまっている板ガラスを鏡代わりに覗きこみ、髪の乱れを直そうというのか、ちょいちょいと自身の前髪を空いている手で触り始めた。

 エシュにとってそれは非常に拍子抜けであった。


「……ナルシストにロクな奴はいねーな……」


 葵が、自分が想像していた人物らしからぬ行動をとったことで、エシュは色々と考えを巡らせていた自分がかなり間抜けなように思えてきた。

 赤の他人の人となりを勝手に想像しておいて、実際の行動で勝手に落胆しているのだから、想像された当人からすれば迷惑な話であるが、その己の愚かしさをエシュが知るのはまだまだ先の話である。

 葵はウィンドウに映った鏡像を見ていたが、それはほんの数秒間のことであった。

 すぐに用がすんだのだろう。何かに気付いた素振りも、周囲を警戒するような動きも見られなかった。多分尾行には気付いていないだろうと判断し、エシュは葵を引き続き追おうとした。


 しかし、数ブロックも歩かないうちに葵はふらり、とマーケットまでの往路では曲がらなかったはずの建物の角を曲がり、路地裏へするりと入り込んでしまった。

 何か気まぐれでも起こしたか、あるいは流石に異変を察知したのだろうか。

 しかし、つい数秒前まで何も考えていないような、無気力さすら感じる足の運びだった。そんな男が今更警戒するだろうか。

 葵がエシュの視界から消え去った瞬間と、エシュの脳内で対象の先を読む集中が途切れた瞬間は、完璧に同時であった。


「くそっ……まじかよ」


 ついその消えた男を見失ってはならないとエシュは、葵がふらりと曲がったところを慌てて追い、同じ角を曲がり、路地裏に駆け込んだ。

 しかし、時すでに遅し、といった表現が良く似合う、誰もいない狭い路地裏がそこにはあるばかりだった。

 葵の姿は今、エシュの前から忽然と消えてしまっていた。


「動くな」


 背後からのその冷たい声にエシュは硬直した。


 かなり近い。

 それなりに屈強なつもりでいたエシュは、そのひ弱でモヤシでひきこもり、なはずのたったひとりの声に、振り向くことも出来ずにいた。

 いや、背中に降りかかる冷気にも似た感覚に、「振り向くべからず」と命令が下り、義務であるかのようにエシュの身体はこわばっていた。

 ひやり、とした感触が、首筋に落ちる。それはまるで氷の糸を押しつけられたようにも思える、冷たい金属の感触だった。

 それ、はエシュの視覚に入っていたわけではなかったが、やすやすとその鋭利さを感知させていた。

エシュにとって思い当たる物体はただ一つ。

おそらく、いや確実にナイフの類であろう。

この男は長袖が『制服』だった。小さな刃物ならすぐに取り出せる隠し場所は列挙できるくらいにある。

 慌てて走って来たせいで、角を曲がった時点で自分は見落としてしまったようだ。どうやらこの男、曲がったと見せかけておいて、追跡者の死角にぴたりと身を隠し釣っただけのことだった。


 自分の腕が衰えたとは思いたくない。この結果はどう見積もっても、この男自身にかつて尾行された経験があってのことだ。そう言い聞かせているつもりでも、それでもエシュのプライドには傷の入る出来事であった。


 別段、葵がエシュの身体の一部を拘束しているわけではない。ただ彼の首筋に小さなナイフを当てているだけのこと。

 逃げればよい、対抗すればよい、相手はただ一人の上に、片手は買ったばかりの品々を詰め込んだ重い紙袋でふさがっているのだから。

 しかし、エシュは逃げようとしなかった。否、出来なかった。

 ただ棒立ちになっていた。

 そして、葵の突きつける刃は正確に、人体の弱点へ狙いを定めピタリと動かない。

 明るい陽の光の下でありながら、その暖かな世界に背くように、殺気がそこには満ちていた。

 葵は、己が優位だと認識していても、決して自分から警戒を解く気配はまるでなかった。相変わらず刃を追跡者の首筋に当てたまま、その様子をうかがっている。

 エシュは思った。ここは正直に会話を試みるべきだ、と。いまやその小さな刃物がエシュの命の結末を決める。この男が消すべしと判断すれば、そこでオサラバとなる。エシュはそれだけはどうしても避けたかった。


「まぁ、待て、待て。別に俺はお前に危害を加えるつもりはない」

「…………」


 凍てついたような沈黙が続く。葵は依然答えない。相変わらずこちらを睨みつけているのだろう。

 この男の野良猫のような慎重さなら、この数秒で嫌というほど理解している。

 誠実さをアピールし、かつ、明確な理由を言わなければ、この緊張状態から解放してくれないだろう。


 この葵という男を見くびりすぎていた、とエシュは口には出さないが悔恨を覚えていた。

 少なくとも、首筋ぴったりに刃を立てているその手元には、わずかな危なっかしさも震えも見られない。“慣れて”いるのだ。

 刃の重量に根負けして手首が緩んでくる、なんて気配はみじんもない。柄の握り方一つとってみても、しかるべき場所でしかも体系付けられた教えを受けたものだ、と思っても良いだろう。


(心配というか、なんというか。こいつ昔は一体どこで何をしてきたのやら)


 早瀬の言っていた“危険なこと”というのは、どこかのよからぬ誰かから危険な目に遭わされる方、ではなくて、哀れな誰かに危険な体験をプレゼントする方、を指していたのかもしれないな、という考えがエシュの頭に浮かんだ。

 とにかく、このままだんまりを続けていけば、自分の生存確率は確実にゼロに近付いていくだろう。

 思いすごしではない。現に、首筋にかかる押し当てた刃の圧力は先程から、心なしか強くなってきているのだ。


「あんたの叔父さん……早瀬から依頼を受けたんだよ」

「……早瀬さん……だと?」


 そこでやっと手首から切っ先まで通っていた力が抜ける。

 やっと冷たい金属の感触が首筋から離れていくのがエシュには良く分かった。


 緊張と白刃から解放されたエシュは、その刃が当てられていた部分をいとおしむようにさすりながら振り向き、後ろに立っていた葵とやっと対面した。

 刃を向けられていたのは実質たった数秒のことだったが、数日間の連続夜勤からやっと解放されたような気分になり、エシュは大きく息をついた。


「どういうことだ。説明しろ」


 相変わらず目の前のエシュを睨みつける葵を制しながら、エシュはこれからどうするべきかを考えた。


(まずは穏便に話せる場所へ移動しよう。長い話になるかもしれないし。

 というか、こんな所に長居して、不審者とか放火犯の下見扱いを受けるのはまっぴらだ……)


 エシュは既にあきらめの境地に達していた。

 ここまではっきりと対象者に捕捉されてしまったのだ。早瀬の名も出した以上、小芝居じみたごまかしで、葵の追及から逃れることは困難だろう。

 これからする会話の中で、対象者に依頼内容をバラすことになるのは避けられないだろう。

 早瀬からの依頼は完全に、この時点をもって継続は実質不可能となった。



 結局エシュは、早瀬と交渉を行った時と同じ喫茶店で、彼の甥に今度は問い詰められる破目となった。

 しかも全く同じボックス席に着き、同じように注文するはアメリカンコーヒーというところまで、何もかもそっくりそのままだ。否応なしに既視感というものがそこにはあった。


「……で。どういうことだ」


 葵は開口一番、エシュに警戒心をむき出しにした語調で切り出した。

 相手を詰問する、というシチュエーションには不慣れなのか、なにがしかの焦りがあるのか、先刻の刃の扱いの練度と比べると、どうにも素人寄りである。


「いや、どうしたもこうしたも……あんた、心当たりあるだろ」


 早瀬は葵にとってどういう人物か。それによってはエシュの運命は違っていた。

 その両人がもしいがみ合う仲ならば、今、エシュはここに座ってすらいなかったろう。この男はそういう、自身に警戒心を持たせる存在に対し、非常に冷徹になれる人間なのだ。

 そんな人間が早瀬の名を聞いて引き下がるのだから、この甥にとって叔父は上位にあるものだと、そこまではエシュでも類推出来た。

 そんな物騒な人物に対して、わざわざ早瀬が心配して監視の依頼をしてくる心当たりとは。

 その心配の内容は加害か被害かは知らないが、そんな身内同士の心の機微は他人では知り得もしないし、聞いたところでエシュは心理学の知識は持ち合わせてはいない。


 ただ、葵が己の内面に目を向け、思い当たる節があればよし、無くてもそれは家族間のもの。ここではエシュ主導で話をつなげるための問いかけでしかない。

 案の定、葵は目頭を押さえ考え込む。そしてため息をひとつつき、切りだしてきた。


「……いくらだ?」

「それは言えん」

「倍払う」

「どういうつもりだ」

「『何も困らせることは無い』早瀬さんにそう報告してほしい。受けてくれるなら、今提示した金を払おう」


 それはまるで、ロブスターや仔牛のセリのような速度の応答だった。

 しかしそうやって葵が金の話をし出したあたり、既にエシュに勝ち目が見え始めていた。

 葵は早瀬との接触を回避したがっている。しかし、それは忌避ではない。憎悪の感情はそこにはない。


「依頼人に虚偽の報告をしろと?」

「あんたは依頼された業務を早々に失敗している。

 前金は契約上丸取り出来るとはいえ、未払いの後金に関しては、成功報酬でも実働日数の換算でも、ロクな払いにはならないだろうな。

 自営業で賞金稼ぎ、となれば生活は不安定と相場は決まっている。

 今週はいくつパンを食べられたのか? あんた、それでいいのか?」

「それならこっちは叔父さんに対して“日向 葵が嘘の報告を流すようにと脅迫してきました”って流してやってもいいんだぜ?」

「…………」


 一瞬、葵の眉がピクリと動いた。早瀬の存在は確実にカウンターとして効いているようだ。

 双方の間に沈黙が降りる。

 どうやらやはりこの男、あの叔父とやらに相当頭が上がらないようだ。むしろ弱みに近い。

 この早瀬というワードが今後もカギになってくるだろう。そんな使われ方をされるなんて本人は露知らずであろうが、ここはひとつ頑張ってもらおう。とにかく早瀬、と持ちだせばこの男はいとも簡単に黙る。今ここでの交渉の主導権すらあっさりと、こっち側にやってきたのだから。

 エシュはこのチャンスを逃してはならない、と思った。今この会話の中で、彼と我とは対等である、と完全に彼に認識させねばならない。


「俺だって一応『元』プロだが、あの依頼主はお前さんの能力や特技など、ある種の特殊性を知らせてこなかった。

 調査をするにしても、提供されたプロフィールにこんな大きな穴があっちゃ、話にならねー。

 対象者が調査活動に対し牽制できる方法を知っている前提を、こちらが知らされていない状況下で、俺は仕事を失敗した。

 それにも拘らず、依頼主が俺に対して認識するのは『仕事を失敗した』

 その一点のみだろうと、想像に難くない、な?」

「…………」

「これはフェアではない。そうだろう?」

「…………む」

「お前さんは、叔父さんに迷惑を掛けたくない、という心理がある。

 替わって俺の方は、こんな不確定要素を知らされない状況でありながら、

 受諾した依頼を失敗したとみなされることで社会からの信頼を失うのは嫌だ、という思惑がある」


 そこまで一気に言い、エシュは少し冷めてしまったアメリカンコーヒーを、ぐいっ、と飲み干す。エシュの言っていることは半ば言いがかりに近いが、葵に自身の存在をばれてもなお、飯のタネと命を亡くすわけにはいかなかった。

 小手先だろうと何だろうと要は勢いである。

 そこに矛盾や理不尽があっても白を黒と言い放つことも勢いがあれば可能なのだ。世の中はそうして回っている。

 そして、葵の顔をまっすぐ見据え至極まっとうな表情をしながら、こう切り出した。


「ここはひとつ、俺とお前が仲良くなるのが一番いい手だと思うわけだ」

「…………」


 葵はエシュの提案に、うんともすんとも言わなかった。

 いや、完全に勢いにのまれたような、間の抜けた表情でエシュを見つめるだけであった。何を言っているのか良く分からない、そんな心情を物語るような目つきだったことは良く分かる。


 これは滑ったのかもしれない。そうエシュは内心焦りを感じたが、口から出た言葉は引きもどせない。エシュは続ける。


「友人関係があるように見せときゃ、あの叔父さんだって胃を痛めることもないだろ。どうだ?」

「お前、頭沸いているだろ」


 やっと葵の脳味噌が息を吹き返したのか、少々子供じみた減らず口が返ってきた。


「お互いの共存のためには、これが一番だと思うがな」


 ならばこちらは大人らしく優位であるように振る舞って見せる。

ここまで葵の気勢を削げば、今一応の身の安全は確保できる。エシュの今の目的はあくまでも保身止まりであった。

 あまり葵に、本気で友達付き合いを望まれても、それはそれで精神的に不都合である。


「お断りだ」


 結局葵は、エシュと友人関係となるという提案に乗ってくることは無かった。

 卓上に自分の分の飲み物代とチップを置いていき、さっさと葵は店を出た。


「さてと……次はどうするかな」


 席に一人残されたエシュも、全てが良好だとは言えなかった。

 第一、現段階では肝心の収入源は収入減である。対象者に監視者が捕捉されているなどとは最悪な展開である。

 ただ少なくとも対象者からは今後命を狙われずにいられるだろう。これからの監視業務及び報告を何食わぬ顔で続けられるかどうか。それによってエシュの今月の献立が決定するのだ。


 座席の背もたれに身体を預けながら、背を伸ばしたエシュは、じっくり次の手を考えることにした。

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