第9話~序章~
「実は――。僕はもうすぐアメリカに帰ることになってね」
「アメリカ?」
そう言えば、ここ最近の叶子の様子がおかしい。マネージャーという責任ある立場にまだ慣れておらず、ただ疲れているだけなのかと思っていたがそうではなかったのかと健人は気付かされた。
「で? あんたがアメリカに行くのと、俺に頼みがあるってのと何の関係が?」
テーブルに手をつきジャックはゆっくりと立ち上がる。表情を見られたくないのかすぐに健人に背中を見せると、両手をポケットに突っ込み窓から外を眺めた。
「カナを守って欲しいんだ」
その様子からして冗談で言っている様には見えず、一体何事かと健人は頭を捻った。
「どういう……? てか、まさか……カナちゃんを置いていくのか?」
ジャックは振り返って窓枠に腰をもたげると、少し肩を上げて視線を逸らした。
「そのまさかだよ。彼女は連れて行けない」
これは健人にとっては願っても無いチャンスかも知れない。もしかしてと、淡い期待が膨らんだ。
「……別れるのか?」
「それは無い」
きっぱりと断言され、あっという間に健人の期待は打ち砕かれた。二人は固い絆で結ばれていて健人の出る幕は無い。それ位は健人自身もわかってはいたが、だからと言って簡単に認める事が出来る程自分は大人ではない。ジャックと同様に健人もまた、今までに経験した事の無い感情を叶子に寄せているのだった。
「! なんだよ……、ったく。――で? 守るってどういう意味?」
「実は、後任で僕の兄がここを引き継ぐんだけど、彼女の存在を兄に知られたくないんだ。僕が側にいない状態ではね」
「……」
「僕にとって兄は本当に恐ろしい存在で、僕の恐怖そのものだ。彼は僕の手から何もかも奪い去ってしまう。僕を陥れる事だけを生き甲斐にしてる様な奴なんだから」
ポケットから手を出すと自分の掌をじっと見つめている。恐怖心からなのか、それとも怒りからなのかわからない震えがジャックを襲った。
「一体、どんな奴なんだ? その……あんたの兄貴って」
いつも強気なジャックがこれほどまでになるとはと、その兄という人物に少なからず興味がわく。面倒事に首をつっこみたくはなかったが、健人は好奇心から訊ねた。
「君はそこまで知らなくていいよ。ただ、兄とカナを近づけない様にさえしてくれればいいんだ」
「なんだよそれ! ここまで喋っといて『知らなくていい』だなんて、自己中過ぎねぇ!?」
ジャックはどうしても話したくないのか、再び両手をポケットに突っ込むと面倒臭いとばかりに溜め息を吐いた。
「第一、こことの仕事はもう今日で終わりだろ? そもそも、カナちゃんは担当分野じゃなかったんだから今後接点なんて無いだろうし、そんな気にすること無くね?」
健人の言うことはもっともな話ではあったが、それが出来ればここまで悩まない。仕方ない、とばかりにジャックは重い口を開いた。
「彼が僕と彼女の関係を知ったら、無理矢理にでも接点を作ってくるんだよ。誰にも悟られず、ごくごく自然にね……」
「だからぁ! 仮に二人が近づくことがあったとしても、どってことねぇんじゃねぇの? それとも、なんだ? 彼女があんたの兄貴に乗り換えるとでも思ってんのか? あんた、そんなに自分に自信がねぇの? は、あきれた」
自信がないのかと言われ、ジャックの眉がピクリと上がる。その少しの変化に気付く事が出来ず、ここぞとばかりにジャックをこけ下ろした。
「それに、カナちゃんはそんな馬鹿な女じゃねーよ。この俺にさえ見向きもしてくれないんだからな」
すぐ側にこんなにいい男がいるってのにと言いた気な顔をして、契約を少し口を尖らせている。それを見かねてか、ジャックは鼻で笑いながらも同じトーンで話し出した。
「はぁ。前にも言っただろ? 君はスタートラインにも立つことすら許されないんだって」
「なっ!? またっ――!」
「しかし、彼は……ブランドンは違う。言わばシード権を持ってるようなもんだ。突然現れて何もかも自分のものにする、そんな事をいとも簡単にやってのける男なんだよ」
頼みがあると言われて主導権を握っていた筈が、まるで高校生相手に言って聞かせているかの様な扱いに辟易する。流石の健人ももう我慢の限界だとカッと顔を赤くさせた。
「っ! 勝手に言ってろよ! あんたが日本にいない間、あんたとカナちゃんに何があろうと俺の知ったこっちゃねぇ! 人にものを頼む時はせめて相手を対等に扱えよな!」
そう吐き捨てると、聞いてられないとばかりに部屋を飛び出した。
(っんだよっ、あいつ……! 人をコケにすんのも大概にしろっ!)
ジャックと彼女の関係に横恋慕してくる者のいわば“排除役”を与えられたからと言って『はい、そうですか』と素直に引き受ける程健人も馬鹿じゃない。しかし、彼の言う兄の存在は彼だけでは無く、健人にとっても邪魔になりそうなのは先程のジャックの様子で自ずとわかった。
「……また面倒なのが増えるのか」
足早に大股で歩いていたのが徐々にスピードが落ち、険しかった表情が次第に無になる。いつも自信満々なあのジャックがあそこまで怯えるとはと、未だ見ぬ相手に健人も少なからず恐怖を感じていた。