第26話~決心~
突然の別れ話に叶子の頭の中は真っ白になった。
ついさっきまで愛を語りあっていたのが何だったのか。ジャックの事がまた見えなくなっていく。
結婚という形を取りたく無いが故に、叶子の事を想っていても別れた方が彼女の為だと言う。それもジャックの優しさなのだろう事はわかってはいるものの、その考え方が叶子には到底理解出来るものでは無かった。
「貴方、自分が何を言っているのかわかってる?」
ジャックは叶子の手を離すと、前を向き膝に肘をついて顔を塞いだ。
「うん。凄く辛い事を言ってるって事はちゃんと把握してる」
「私が結婚っていう紙切れだけの決め事に縛られる様な人間だとでも思ってるの?」
「そうじゃないけど。でも、カナだっていずれは結婚したいと思ってるでしょ?」
「そんなの! ……思ってないって言えば嘘になるけど」
ジャックは顔を塞いでいた手を取ると、“ほらね?”と言わんばかりの顔をする。そして視線を遠くにやりながら何かを思い出している様に話し始めた。
「娘がね。……もう数年前の話なんだけど、娘の友達の両親が離婚して再婚したらしいんだ。で、その友達から色々嫌な事を聞かされたみたいで、ある日僕に『パパは再婚しないよね?』って聞いてきたんだよ。その時は勿論、そんな事思っても無かったから『ああ、しないよ』って答えたんだ。そしたら嬉しそうな顔されてね。その時、もう結婚はしないって固く誓ったんだ」
「――わからない」
「えっ?」
ジャックは目を見開くと隣に座っている叶子を見た。さっきまで子供のように泣いていたのが嘘の様に、何やら難しい顔をしている。
「貴方の事がわからない。結婚したくないって言う気持ちはわかるけど。でも、私は結婚したいから貴方を好きになったわけじゃないのよ? ただ、一緒に居たいってだけなの。それは今までと何ら変わりないのに、何故別れなきゃなんないの?」
「だって僕は結婚出来ないんだ。そんな僕とずっと一緒にいたって君は幸せになれないんだよ?」
「――! だからっ! 何で結婚できなきゃ不幸せだって言う構図が出来あがるわけ!」
「え? だ、だって」
「『だって』? 何よ!?」
「えぇ……?」
叶子が明らかに苛つき始めたのを見て、ジャックは何も言う事が出来ず閉口していた。
三十歳を過ぎると途端に周りの声がうるさくなる。同僚は勿論、後輩までもが次々と結婚退職していき、両親、親戚だけでなく、更には道行く人まで『あの人独身かな?』と言った類の声がヒソヒソと聞こえてくるのだからたまらない。
たまには自分にご褒美と思ってエステにでも行こうもんなら、申込書に既婚なのか未婚なのか答える欄があるのを見て、心の中で舌打ちをする様なことが今まで何度あったことか。
結婚に対して自分は焦っていなかったのに、周りから責められて何するにも敏感になっていた時期も確かにあった。でも、今は優しい彼がいるし、仕事も順調。今が良ければそんな事思いもしなかったのに。
「はぁーっ」
ジャックにまでそんな事を言われてしまい、大きな溜息が出た。
そして丸くなっていた背中を突然ピンッと伸ばすと、急に魂が吹き込まれたかの様な目で一点を見つめた。
「もういい! 決めた! 私もアメリカ行く!!」
「カナ、ダメだって。君には仕事が……ひっ」
叶子にギロリと睨まれ、ジャックは思わず口を噤んでしまった。
「これは私の人生よ。貴方に勝手に決められたくない!」
「カナ」
叶子は腕を組み口先を少し尖らせる。ソファーの背にボスッと寄りかかった彼女の頬は、興奮気味なのか少し赤くなっていた。
その様子を横目で見たジャックはクスリと微笑んだ。長い腕を広げて叶子をぎゅっと包み込む。
「?」
「ありがとう」
耳元に囁かれた柔らかい声がとても心地いい。ぐっと寄せられていた眉が元の場所に戻っていく。
強く抱きしめられた腕の力が無くなるのを感じると同時に、二人はゆっくりと唇を重ねた。
◇◆◇
いつもの様に仕事に向かう。
いつもの電車に乗り、いつもすれ違う人に会い、いつもの様に吠えてくる犬を横目で見る。
これらが日々の習慣の様になっていた。それももう少しで終わろうとしている。
――いつもと違うのは、
「マネージャー、この書類にサイン下さい」
走らせていたペンをピタッと止めると、顔を上げた叶子は怪訝そうな顔を浮かべた。
「その呼び方止めてよ」
「どうしてですか?」
「なんだかこそばゆくて」
昇格してからというもの、叶子は以前にも増して慌しい日々を送っている。彼の兄も来日したようでその引継ぎ関係でバタついているのか、あれから電話で話はするものの中々会うことが出来ないで居た。
「ボス、打ち合わせ行って来ます」
「あいよ! いってらっしゃい!」
少し暖かくなった街に目を向けてみると、これから始まる新生活に期待で胸を膨らませているであろう人々と何度もすれ違う。自分もその一人のはずなのに、何故か素直に喜びを表せなかった。
「――」
期待と不安が入り混じる感情を抑え、桜の木の下で少し立ち止まると、ひらひらと舞い降りる桜の花びらを見上げていた。
~ニ週間後~
いつもの様に待ち合わせ場所に先についたジャックは、人ごみの中の彼女を見つけた。
途端、ジャックの顔から笑みが零れ落ちる。ジャックは叶子に向けて手を上げようとしたが、その手が上がる事は無かった。
「カ――、……」
ヒールを引きずるようにしながら下を向いた叶子が、待ち合わせ場所に近づいて来る。そんな叶子の姿を見て、ジャックの胸は否応なしに締め付けられた。
「ちょっと散らかってるけど、適当にくつろいでね」
ソファーとデスクとベッド以外はダンボール箱で溢れていて、足の踏み場も無い彼の部屋。その光景を見た叶子の表情が一気に暗くなったのを、ジャックは見て見ぬ振りをしてデスクへと向かった。
「カナは準備進んでる?」
「ん? うん、……ボチボチかな」
「ボチボチって。後一週間しかないよ?」
「うん。私はギリギリにならないと本気が出せない性質なの」
「――」
ソファーに腰を下ろした叶子の目は焦点が合っていない。大きな溜息を零しているのもきっと自分では気付いていないのだろう。
デスクで片づけをしながら彼女のそんな様子を見ていたジャックは、作業する手を止め叶子の隣に腰を落とした。
膝の上に丁寧に重ねられた彼女の手を、ジャックの大きな手のしらが覆う。そうされてやっと隣に彼が座った事に気づいたのか、少し驚いた顔をしていた。
「カナ、無理してない?」
「え? 無理って?」
「本当はアメリカなんて行きたくないんじゃないの?」
「そ、そんな事ないよ! ……ちょっと疲れてるだけ」
叶子の手を掬い上げると、ジャックはその白い手の甲にそっと口づけた。
「そか。でも、本当に無理はしないでね」
「うん、ありがと」
「――」
いつもと違う彼女の態度にジャックは不安を覚えた。
それ以上その話をしなかったのは、叶子の気持ちが揺れ動いていると感じ、日本に留まる事を選択されたく無かったからだった。
最終的にどうするかを決めるのは彼女だ。
ジャックは叶子の気持ちを優先し、一緒にアメリカへ着いて来てくれるのを願うしかなかった。