第20話~絆~
藍子が彼を訴えたと言う噂はどうやら本当のようだった。
その話を耳にした時かなり驚いたが、もっと驚いたのはジャックの返答だ。
「そうだよって……なんだか余裕ね」
「うん、だって余裕だもの」
ソファーの背にもたれながら頭の後ろで手を組む彼は、苦笑いを浮かべている。
「え!? なんで? 訴えられたんだよ?」
「普通ならもっと動揺するんじゃない?」とジャックではなく叶子がなぜか動揺しているのに対し、ジャックは至って冷静だった。組んでいた手を解くと膝の上に肘をつくように手を組み直す。余裕だとは言ったものの、何処か遠くを見るようなその目は少し疲れているようにも見えた。
「こういう仕事してると慣れっこになるもんなんだよ」
「そうなの?」
「うん。ただアイコちゃんの場合は少し面倒なことにはなってるんだけどね。でも問題ないよ」
「面倒って?」
「なんだか、昨日君が言った様な事を言ってるんだってさ」
「え?」
「僕がアイコちゃんに迫って彼女がそれを断ったらクビ切られたって。笑っちゃうよね」
「……あ、そう言えばなんかそれっぽい事言ってたのを思い出した」
その事でジャックに対する不信感が募ったことを叶子は思い出した。
「……まさか君、その話本気にしてたんじゃないだろうね?」
上目遣いにジャックを見ながら、指で“少し”といった仕草をして見せたが、以前の叶子ではこんな風に返せなかっただろう。ジャックにまつわるとんでもない話に、今では平然としていられた。
既に叶子は十分に傷つき、思い悩んだ。だからこそ、多少の事ではへこたれない自信を持つことが出来たのだった。
「ちょっとカンベンしてよ! 最初に挨拶しただけで、その後電話で二、三度話したっきりだよ?」
「僕にも選ぶ権利ってものが」と言い掛けて、ジャックは慌てて口を噤んだ。
「藍子は貴方に食事に誘われたって騒いでたわよ?」
「ナイナイナイナイ!」
両手を叶子に向けて広げ、頭と手をブンブン振って否定している。
「そんなデマをすぐ信じられるなんて、僕って周りから見るとそんなに女性に困ってる様に見えるのかなぁ?」
「それってどういう意味? まるで自分はモテるって言いたい訳?」
顎に手を置き不満そうな顔をしているジャックに向かって、叶子は片眉を上げて少し睨みをきかせた。そんな彼女の表情を見たジャックは目を細めて甘い顔を覗かせた。
「僕の心は君で満たされてるのに、って事だよ」
そういいながら伏目がちに彼が近づいてくるのを感じ、叶子もそれに合わせるようにゆっくりと目を閉じていった。
「……」
だが、彼の唇は叶子の口元を通り過ぎ、右頬に触れる。唇にキスをもらえると思っていた叶子はなんだか拍子抜けした様な面持ちで、口付けられた頬に手をあてがった。
すぐに離れたジャックは部屋の時計を見た後、スクッと立ち上がる。
「もう時間だね、送るよ」
そう言って叶子に手を差し出した。
◇◆◇
帰りの車の中で先ほどの事を考えていた。今までなら唇にキスをしてくれていたのに。今までなら『泊まってく?』って言ってくれるのに。
やはり昨日の事があったからなのだろうか。それともしばらく会わなかった事が彼の中に何かしらの変化をもたらしたのだろうか。
今までとは違うジャックの態度が、少し気に掛かっていた。
「あのさ、ケント君から何か言われた? その、昨日の夜の事で」
やはり相手は健人だとジャックは気付いていたということがわかった。もう何も隠す必要はないと感じ、包み隠す事無く正直に話すことにした。
「うん。……反省してるって言ってたよ」
「そか。彼はやっぱり本気みたいだね、君の事」
「ち、違うって! そんなんじゃないから。健人はただ貴方を妬んでるだけだと思う」
「君はそう思うのかも知れないけれど……。正直、心配だな。そんな男が君の側にいるなんて」
ハンドルを握っているジャックの視線は前に向けたままだったが、横顔からは心配そうにしているのがわかった。
暗い車内に時折街頭の明かりが零れる。チラッと叶子の方を見た時に見せたその顔は、少し憂いを含んでいた。
「だ、大丈夫! 貴方が心配するほどの事じゃないから」
「本当? 信じても大丈夫?」
何度も何度も大袈裟に頭を縦に振る。ジャックに余計な心配をさせたくなかった。
「じゃあさ、ひとつお願い聞いてくれる?」
「うん、何?」
「その、そろそろ名前で呼んでくれないかな?」
「へ?」
「いや、ケント君はいいなぁーって思ってね。名前で呼んでもらってるし」
「あぁ……」
実は叶子も少し気にしていた。ただ、あまりにも時間が経ちすぎてしまったせいで今更感があり、名前で呼ぶ事に抵抗があったのも事実。そのうち自然と出てくるだろうから焦らなくていいかなと思っていた矢先の突然のおねだりに、余計に呼びづらくなってしまった。
「あー、えーっと」
一向に名前を呼ばれる気配がない。どうやら痺れを切らしたらしいジャックは叶子を煽り始めた。
「はい、呼んで?」
「ええ!? ……ジ、ジ」
「……」
「ジ、ジ、ジ、……あぁーダメ! そう構えられると、恥ずかしくて余計言えない!」
「何で恥ずかしいのさ。僕は平気だよ? カナ」
「あの……その……今更感があって……ね?」
「えー? じゃあこれからもずっと僕の事“貴方”って呼ぶの? 遠くから僕を呼ぶときも? そんなのみんな振り向いちゃうよ」
「う、うーん」
顔に集まる熱を冷ますかのように、両頬に手を置いた。
「ほら、もう君の家に着いちゃうよ!」
「も、もう! 何も今じゃなくても。ちゃんとその内呼べるようになるって」
そうこうしているうちに叶子のマンションの前に車が止まった。助かったといわんばかりに、彼女はそそくさとシートベルトを外し始めた。
「ああ! 残念! 今度ちゃんと言うから!」
顔を引きつらせながら車のドアを開けようと手を掛けたが、どうしてかビクともしない。
「あれ?」
「開かないよ。チャイルドロックしたから」
「な、何で? ……かな? あ、はははー、……はぁ」
ジャックの方を振り向くと、まるで子供が何か悪いことを企んでいる様な表情にゴクリと息を飲む。まさか……と感じたその予感は見事的中した。
「聞くまで帰さない」
「ええぇぇぇー!?」
これは長丁場になるだろうと予想したのか、ジャックもシートベルトを外してハンドルを抱え込んだ。今か今かと叶子の口から自分の名前が出てくるのをひたすら待っている。
「ジ、ジ、ジャ……だはぁー」
叶子は指を絡ませ、どうしたらよいのかと困惑している様子だ。そんな叶子を見てジャックはくすりと微笑んだ。
「今日じゃなきゃ、ダメ?」
「うん、ダメ」
インパネのブルーの明かりがジャックの顔を照らす。ヒーターの暖かに眠気を誘われるのか、男性だと言うのに妙な艶っぽさを魅せていた。
(そんな目で見つめられたら、余計に緊張して言えない!)
心の声が聞こえたのか、彼の薄い唇がゆっくりと開いた。
「仕方ないなぁ。じゃあ大サービスで僕が呼びやすくしてあげるよ」
「え? ……あ」
そう言うと、手を伸ばし叶子の頭をゆっくりと撫でつけた。そのまま手を頭の後ろに回し、もう一方の手は叶子の頬に添えた。革張りのシートが軋む音がし、潤みを増した彼の双眸がゆっくりと叶子に近づく。また、先ほどの様に肩透かしを食らうのかもとギリギリまで目を開けているつもりだったが、ジャックの顔が接近してくるとどうしても目を開けたままでいることが出来なかった。
閉じた瞼にそっと唇が触れる。もう一方の瞼にもキスが落とされ、チュッチュッと両方の頬や額にキスの雨が降り注いだ。キスの雨が止み目を開けようとすると、叶子の唇に彼の唇がそっと重なる。求めていたものをやっと与えられると、叶子はこの上ない幸せに浸った。
小鳥が啄ばむ様に何度か唇を合わせると、申し合わせたわけでもなく次第に深い口づけに変わっていく。
「愛してるよ、カナ」
「私、も。……、――ジャック」
ジャックが甘い声で叶子の名を呼び、愛の言葉を囁く。ご褒美を与えられると叶子は自然に彼の名を呼ぶことが出来た。
「……」
唇を合わせながら口元を緩めたジャックは、この一瞬の悦びの為に今まで彼女に触れるのを我慢していたのだろう。とても満ち足りた笑顔を浮かべていた。
「ありがとう、カナ」
「――もう帰っていい?」
照れ隠しとは言え、そんな風に言うなんてムードが無いと怒られるだろうか。
「ん、……もうちょっと……」
そんな叶子の心配もよそに、ジャックはキスのおねだりをすると再び叶子を腕の中に閉じ込めた。
二人の関係は今まで以上に強い絆を作り、周りに振り回される事は無くなった。お互いを信じる事で、二人の間にある絆はより一層強く固いものへと変化を遂げた。