第15話~屈辱~
頬に伝わる彼の温もり、彼の匂い、彼の胸の鼓動――。
それは心の奥底でずっと彼女が求めていたもの。
彼は何も言わず無条件に抱きしめてくれる。
彼女はもうこのまま離れたくないと願う。
叶子はジャックの胸元に顔を埋めると安心感で一杯になり、ゆっくりと瞼を閉じた。
◇◆◇
叶子を優しく包み込むように抱きしめたジャックは、普段とは違うある事に気付いていた。
わずかに鼻につく男性用のフレグランス。
打合せと称し、健人と二人で話をしたあの日に彼がつけていた香水だとわかると、叶子を抱く手に自然と力が入った。
「ジュディス!」
叶子の背を抱いたまま、まだ受付で立ち呆けている自身の秘書を大きな声で呼びつけた。その声を聞いて、ジュディスが慌てて彼に駆け寄ってくる。
「は、はい」
「ジュディス、彼女を頼むよ。僕の部屋まで案内して」
「はい、かしこまりました」
信頼できる部下に叶子を託そうとするが、叶子は動こうとしない。叶子の肩を優しく掴み、表情を窺うように覗き込むが叶子が顔を上げる事はなかった。
「カナ。ジュディスと一緒に先に行ってて?」
ジャックの胸元に顔を埋めたまま、叶子は頭を横に振った。
「僕もすぐに行くから、ね?」
「どうぞ、こちらです」
「……」
やがて彼の胸からゆっくりと離れると、ジュディスの方へと向き直る。肩にかけられた彼のコートを両手でぎゅっと掴むその姿は、まるで彼のぬくもりをずっと感じていたいかの様だった。
叶子をジュディスに託すと、ジャックは真っ先に受付に向かって歩き出す。コツン、コツンとその足音が静かなロビーに響き渡っていた。
「あーヤダヤダ、今日はとんだ残業になっちゃたわ」
「ほーんと。さっ、やっと片付いたしさっさと帰ろうよ」
ジャックが近づいて来ているのにも気付かず、受付の二人はおしゃべりを続けていた。
「帰りにさー、……ぁ」
一人がジャックに気付き、もう一人に目で合図を送る。すると、二人は慌てて姿勢を正した。
ピタリと受付カウンターの前で足を止めたジャックの表情には先ほどまでの優しい笑顔は無く、何処か不機嫌そうにも見える。容易に話しかけられる様子では無いということは、誰が見てもわかる程であった。
「――彼女は何時に来たんだ?」
「あ、はい。確か……、二十時過ぎだったと思います」
ジャックが右手のシャツの袖を捲り腕時計を見る。時計の針は二十三時を過ぎていた。
「あの、社長。私達そろそろ上がりま――」
一人がそう言い掛けると、彼がカウンターにバンッと手を叩きつけた音で二人の肩が大きく竦んだ。
「きゃっ!」
突然の事に身構える二人。ジャックは長い前髪の隙間から怒り狂った眼差しで二人を睨み付けた。
「君達はあんな姿の彼女を、あんな目立つ所でまるで見世物のように三時間も突っ立たせてたのか!? 彼女は僕を訪ねてきているというのに僕に連絡もよこさないのはおろか、別室に移す事も服をかけてやることもせずに!?」
「あ、いえ、あの……」
言い訳があるならばしてみろと言わんばかりに、ジャックはそこまで言うと口を閉ざした。だが、二人は目を合わせて戸惑うばかりで言い訳らしい言葉など何も出てこない。そのことが、全てを物語っているのだとわかった。
「自分達があの状況だったらどう思う? 平気であそこで立っていられるのか? 同じ女性なのに彼女の気持ちがわからないのか!!」
「も、申し訳ございませんっ!」
シーンと人気の無いロビーに沈黙が走る。
深々と頭を下げたまま顔を上げる事が出来ない二人の頭上に、大きな溜息が零れ落ちた。
「もう、帰って良いよ」
「は、はい。お先に失礼しま――」
あきれて怒鳴る事も馬鹿らしいと言うようなジャックの表情。カウンターに前のめりになっていた姿勢を戻すと、その場から立ち去る前に最後にこう付け加えた。
「ああ、それと。もう来なくていいから」
「え?」
「君達はクビだ」
「……!?」
人差し指と中指で二人を指しながらその場を離れると、受付の二人はただ何も言葉を発する事も出来ず、青い顔でその場に立ち尽くしていた。
──早く彼女のそばにいてやりたい
はやる気持ちを抑えることが出来ず、エレベーターホールへと急いで向かった。
「?」
とうに自身の部屋へ向かっているはずの二人がまだそこにいる。よく見てみると叶子は足を庇いながら歩いているのがわかり、ジュディスはそんな彼女の歩調に合わせて背中に手を添えながら傍らで心配そうにしていた。
「っ!」
痛々しい叶子の様子に、ジャックの眉間には深い皺が刻まれる。
「ジュディス!」
彼女を支えるようにして歩いていたジュディスが振り返る。ジャックはスーツの内ポケットに手を入れながら二人のもとへ駆け寄ると、長財布の中からカードを一枚取り出しジュディスに差し出した。
「これで下の店に行って彼女に合いそうな服を買ってきて」
「は、はい」
そう言うと、叶子をいとも簡単に抱き上げた。
チンと軽い音とともにエレベーターの扉が開く。ジュディスが中に入り、ジャック達が降りる階のボタンを押してから急いで箱の外に出た。
「ありがとう、ジュディス。頼んだよ」
「いえ。では」
日々忙しいジャックには恋人など居ないとジュディスは思っていた。扉が閉まるまで頭を下げながら、もやもやとした感情が心の中で芽生えていた。
◇◆◇
叶子を抱きかかえたまま早足で社長室に向かう。閉ざされた扉を前にすると、「もう大丈夫だから降ろして」と叶子が言った。そんな叶子にジャックは微笑むだけで、扉へと向かうスピードは一向に変わらない。ぶつかる、と思い目を瞑ると、直前でくるりと回って器用に肘でドアノブを下げながら、背中で扉を押して部屋の中へと入っていった。
ソファーにゆっくりと彼女を降ろす。すぐにデスクへと向かうと、受話器をとっておもむろに何処かに電話をかけ始めた。
叶子はただ黙って彼の行動を目で追っていた。
「あ、僕だけど。うん、待ってくれてたとこ悪いんだけど、今日はもう皆帰って良いよ、又明日にしよう。――じゃ」
静かに受話器を下ろすと、次は部屋の隅に向かう。カチャカチャとマグやティーポットを戸棚から出し始めた。
「あの、まだお仕事中だったんじゃ。私に構わず――」
先程の電話の内容から自分のせいで彼が一方的にキャンセルしたのだとわかり、申し訳ない気持ちで一杯になる。それでも彼は紅茶の準備をする手を止める事無く、叶子に背を向けたまま横顔見せた。
「ん? 大丈夫だよ。明日できることは明日にする主義なんだ。……そんな事より」
ジャックが何かを言いかけたのがわかり少し身構える。何を聞かれるのだろうか、こんな出で立ちで突然現れた自分を見てどう思ったのだろうか。ほんの少しの間が叶子にとっては何時間もの沈黙にも感じられた。
紅茶を入れる手を止めて叶子の方へ振り返ると、ジャックはまるで何年も会っていない人にやっと会えて感傷に浸っている。という様な表情をしていた。
「逢いに来てくれて本当に嬉しいよ」
目を逸らすどころか瞬きもせず、叶子の目をじっと見つめながらそう言った。
「今日は沢山話をしようね」
「う、ん」
叶子の勝手な行動を彼は一切責めようとはしなかった。責めるどころか嬉しいと言って暖かく迎え入れてくれる。
その優しさに触れた時、叶子の胸がチクリと痛んだ。