第14話~安らぎを求めて~
「!?」
手にしていたバッグが転げ落ち、さっき健人が拾ってくれた荷物がまた地面に散らばった。両手を使って健人の胸元を押し返しても、以前エレベーターの中で無理矢理されたキスの時とは比べ物にならない程の力で拘束され、ピクリともしない。硬く閉じた唇を抉じ開けるようにして、もっと中に入れてくれと健人の舌が歯列をなぞり上げる。つま先から頭の天辺までゾワリとした感覚が這い上がっていった。
「い……や、めっ」
ありったけの力を振り絞り身体を捻ると、やっとのことで唇は解放された。だが、すぐに逃すものかと叶子を強く抱きしめ、健人は首筋に顔を埋めた。
「ちょっ、ちょっ、ヤダっ! 健人、止めてよ!」
恐怖で身体が凍りつく。まるで耳を貸さない獣の様になった健人は、その手を全く緩めようともせず次第に彼女の身体を侵蝕していく。
叶子の胸を貪る手は、快感を得るどころか吐き気さえも引き起こされる。その手が進むのを阻止しようとするが、妨害されまいと力を込めた健人の手に握り潰されるかと思うほど強く揉みしだかれてしまう。
「やぁっ! 痛っ!」
もがいてももがいても健人の腕から逃れる事が出来ず、彼の拘束の手が緩められるとは微塵も感じられない。
「も、離し……! ――!?」
次の瞬間、スカートのサイドスリットから侵入した健人の手が、太腿を這い出したのがハッキリとわかった。
このままでは健人のされるがままになってしまう。
そんな恐怖から一刻も早く逃れたくて、突き飛ばす事が出来ないのならと屈んですり抜けようと思い立ったが、そのまま地面に押し倒されて余計に分が悪くなってしまった。
(な、何これ!? 何でこんな事になるの!?)
優に百八十センチ以上はある長身の健人の全体重が圧し掛かり、叶子はとうとう逃げ場を失ってしまった。しかも、倒れこんだ拍子に足の間に健人の膝が入り込み、太腿を這っていた手が閉じることの出来なくなった無防備な内腿に触れる。
「い……いやっ!! ――んぅ!」
又もや健人の唇が叶子の口を塞ぎ、チャンスとばかりに己の舌を侵入させる。叶子の舌を追い回すように、健人の舌が執拗に絡みついた。
(い、いや、誰か――助けて!)
「んんんん――!!」
声を上げようにも口を塞がれていてはまるで届かない。視線を横に向ければ通りで人が往来するのが目に見えていると言うのに、誰もこの薄暗い路地に目を向ける人はいない。
どうしよう、どうすれば?
誰の助けも得られない。自分の身は自分で守らなければならないのだと自覚した叶子は、健人の手の侵入を少しでも妨げる為に力を入れていた内腿を緩め、膝を軽く曲げると思いっきり空へ向かって蹴り上げた。
「ぐっ! いっ……、てぇーー!!」
それとほぼ同時に健人の舌に噛み付いた。
力なく崩れ落ちる健人を押しのけると、散らばったバッグの中身を拾いあげながらヨロヨロと立ち上がった。
「あ、あんたはね、別に私を本気で好きな訳じゃないのよ。ただ彼に負けたくないってだけの理由で、彼から私を奪ってやろうって思ってるだけなのよ。……そんなくだらない事で、私を巻き込まないで!」
そう吐き捨てると、股間を押さえもがき苦しんでいる健人を一人残し、叶子はフラフラと路地裏を後にした。
「つぅ、」
さっき倒れこんでしまった時に、思い切り体重をかけられたせいでどうやら足をくじいたようだ。叶子はじんじんと疼く足首を庇うようにして歩いていた。
悔しくて、悔しくてたまらない。
何度も何度も手の甲で唇を拭い健人の感触を消そうとするが、あの恐怖が消えるどころかどんどん色濃いものになってくる。
「……うっ」
――彼に会いたい。
暗くなった夜空を見上げると、目に溜まっていた涙が零れ落ちる。夜空に浮ぶ綺麗な月が、ジャックと会った日のことを思い出させた。
◇◆◇
「あー疲れた! もう流石に帰っていいよね?」
広く閑散としたロビーに革靴とヒールの音がコツコツと鳴り響く。
「いえいえ! まだこの後打ち合わせがありますよ。皆社長の帰りを待っているんですから」
「えぇー!? まだあるの? ……ジュディス、君は僕を殺すつもりじゃないだろうね?」
「年度末ですからね、仕方ありませんよ」
ジャックは怪訝な顔つきでジュディスをじっと見つめたが、当のジュディスはというと、相手が社長とあれど全く相手にしていないとでも言わんばかりの顔をしていた。
「やれやれ。アメリカでは十二月が年度末だから二回も年度末がある様なもんだよ。これじゃあ、おちおちデートの一つも出来やしない」
肩をすくめながら大きな溜息を吐いた。
「あら? お相手いらっしゃるんですか?」
「……」
ジャックは嫌みのつもりで言ったのが、天然なのかジュディスには通じておらず、ストレートに伝わってしまったようだった。
「あっ、失礼しました」
ジャックに睨まれたことで自分が失言をしてしまった事に気付き、片手で口を押さえるとわざとらしく詫びた。
「ジュディス。こういう時こそ上手く切り返す技を身につけておかないと、秘書としての資質が問われるよ?」
会話を楽しみながらジャックとジュディスがエレベーターホールへと向かう途中、受付にいる女性がジャックを小声で呼び止めた。
「あ、あの、社長」
「?」
口元を覆うようにして話し辛そうにしているその女性に、首を傾げながらジャックが近づいていく。
「何? どうしたの?」
「あ、あの、さっき社長に会いたいって女性が来られまして。外出中だって言ったら帰ってくるまで待つって言うんですが」
「うん。……で?」
「あの、その、凄く汚らしい格好で……」
女性が一体何を言いたいのかが、どうにも見当がつかない。いつもであれば分刻みで行動している彼に“要点を絞って手短に”と言われても仕方がないのだが、殆どの予定を終えた今となっては心に余裕があるせいか別段咎めることはしなかった。
「で、今その女性は?」
受付の女性がちょんちょんと指し示す方向を見ると、ロビーの片隅でじっと佇む叶子の姿があった。
「!」
思わず顔から笑みが零れ落ちる。先ほどまで疲れ切っていたのが嘘の様に、丸くなっていた背筋がピンと伸びた。
「『お掛け下さい』って一応言ったんですが、『ソファーが汚れるから』って言ってずっと立ってるんです。やはり警備員呼んだ方がいいですか?」
まだ受付の女性が説明を続けているのを気にも留めず、窓際にたたずむ叶子にジャックは少しづつ歩みを進める。
「……」
距離が近づくにつれ、次第に彼女の異変に気が付く。それに合わせてジャックの顔も歪んでいった。
そして、ゆっくりと進めていた歩調を一気に速め、慌てて彼女の名前を呼んだ。
「カナ!」
「っ、……あ」
ジャックが声を掛けるとビクッと叶子の肩が竦む。振り返った叶子の唇は赤く腫れあがり、淡い色のスーツは背中もお尻も泥だらけでストッキングも無残に破れていた。
「あ、あの、ごめんなさい。急に来ちゃって」
「……」
何かに怯えるようにして小刻みに震えている叶子。ジャックは何も言わず、羽織っていた自分のコートを脱ぐと顔を俯かせている叶子の肩にそれをかけた。
ジャックと会って余程安心したのか、叶子はそのままジャックの胸に顔を埋める。ジャックはまだ震えている叶子の肩を包み込むようにして、両手でぐっと抱きしめると、
「もう大丈夫だよ。何も心配しないで」
何も彼女に問い詰める事も無く、叶子の頭をそっと撫で続けた。




