第44話~誘惑~
「……んっ……」
啄ばむ様なキスを繰り返した後にやって来た官能的な刺激に耐え切れず、思わず声が漏れる。角度を変えて彼が距離を狭め優しく叶子の唇に触れた時、彼の舌が叶子の歯列をなぞりあげた。その事に驚いて僅かに口を開けた瞬間、ここぞとばかりに彼の舌がぬるりと口腔内に侵入を遂げた。
「……あっ、……っ……」
ソファーに押し倒された格好の叶子の上に彼が覆いかぶさっている。彼の腕を掴んで少しの抵抗見せていたその手はいつしか、離れたくないと言わんばかりに彼のシャツを握りしめていた。
(――愛している? 彼が? 私を?)
彼の舌に惑わされながら、先ほどの彼の言葉を反芻していた。
長い手足、大きくてスッとした目元に薄い唇。色素を感じられない程の白い肌が彼を中性的に魅せていて、その容姿は人並み以上、いや人並み外れている。そんな誰もが目を引く容姿もさることながら仕事も出来る彼が女性の扱いも手馴れたものだという事は、ほんの数回会っただけではあったが自ずとわかるものであった。
黙っていても女性が放っておかないであろうそんな人に、突然好きだと言われた事がにわかに信じ難い。好意をもたれているのではとほんの少し自覚してはいたものの、きっと大勢いる中の一人なのだと思ってきた。
誰が見ても超がつくほどのハイスペックな彼が、よりにもよって超がつくほどの凡人である自分を好きになるとは到底思えない。
「カナ、――好きだよ」
「……っ……」
それでも目の前にいる彼が真面目な顔で自分を好きだと何度も告げる。優しく触れられるだけで、もしかすると本当なのかもと錯覚しそうになってしまう。
こんな事は駄目だと思う反面、心のどこかで彼とこうなりたい願望があるのか、彼に抗えない。
幾度となく舌を絡め合う度耳に届く水音で、かあっと叶子の頬が染まった。
彼の指先が頬に触れる。その指先はそのまま髪を梳くようにして流れ、彼の大きな掌は叶子の後頭部を抱え込んだ。その手はやがてうなじへと下降を進めた後、次には顎のラインをツーッとなぞる。貪る様なキスとは逆に触れるか触れないかの距離を保つその指先が、まるで飴と鞭を同時に与えられ焦らされているかの様だった。
「……っ」
顎を伝っていた指先がやがて首筋を辿り始める。ゆっくりと鎖骨に沿う様にして襟を割り、温かい彼の手が左の肩に直に触れた。
柔らかくて温かい、包み込むような彼の大きな手が優しく触れる度に、焦れったい感情が生まれて来る。今、彼に触れられている場所全てが熱を帯び始め、彼だけで無く叶子も又、彼を求めているのだと気付かされた。
ソフトな手の動きとは違い、口腔内を縦横無尽に動き回っている彼の舌を確かに感じる。角度を変える度に口の隙間から漏れ出す水音と、呼吸を抑えようとする自分のくぐもった声が聴覚を刺激し、もっと、もっとと、高みの方へ連れて行った。
深く甘い口づけを交わす二人には何も阻むものはなかった。
もう彼には振り回されない、そう決めたのにも関わらず目の前の彼に溺れて行った。
「――? きゃっ」
彼の長い腕が叶子の肩と膝裏に滑り込んだかと思うと、次の瞬間、ふわっと身体が宙に浮き咄嗟に彼の首に両手を巻きつけた。驚いた顔で彼を見上げる叶子にニッコリと微笑みを返し、スタスタとまるで軽い物でも持つ様にして歩き出した。その先には、大きなプロジェクターがあると言っていたベッドルームがあり、今からそこで何が行われるのかが簡単に予想がつく。大きく跳ねる心臓の音が彼に聞こえてしまわないかと、恥ずかしさに顔を俯かせた。
見た事も無いような大きなベッドにそっと下ろされると同時に、そのまま彼も覆いかぶさった。再び彼の顔が近づき、もう一度ゆっくりと唇を重ねた。
彼のキスは決して強引にするのではなく、相手の様子を見ながら少しづつ進んでいく。彼らしい優しいキスに翻弄されつつも、昼間にされた健人の強引なキスをこんな時に思い出してしまった。
(あんなの、最低だ)
あの時の嫌な思い出を彼で上書きしたかった。過去を上書きする事が出来たなら、無かった事に出来るのならどんなに気持ちが楽になるのだろう。
「――」
『無かった事にして欲しい』
彼に告げられたあの日の台詞が、突如として頭の中を駆け巡った。
以前、彼から切り出された別れの言葉を思い出し、叶子が動揺し始めた事に気付かず彼の唇は首筋を這い始める。
「は、ぁっ……」
突然やってきた刺激に耐えられず、勝手に零れ落ちた甘い吐息。次に彼の大きな手は叶子のくびれた腰を捉え、シャツの裾から素肌に滑り込んだ。
「……っ!」
腹部を撫でながら這い上がってくるその手を遮り、反らしていた喉を引く。彼は叶子の服の中に入り込んだ自分の手の上に重ねられている華奢な手に一度視線を落とすと、叶子の顔を覗き込んだ。
眉をくっと上げ、少し首を傾げたその顔からは、言葉には出さなくとも何か問題でもあるのかと言いたげなのが見てとれる。
「ご、めんなさい」
「――」
彼の胸に手を置いて彼を拒んだ。ゆっくりと上体を起こした叶子はそれ以上何も言わず、髪と衣服の乱れを整えている。
片膝を立て、叶子の横に座る彼は少し寂しそうな表情を浮かべていた。
「どうしたの?」
「あの、やっぱり無理です」
「無理って?」
「貴方と、その……、こういう関係になるのは良くないって思うんです」
「じゃあ君は、僕と一体どういう関係を望んでるの?」
「その、今まで通り仕事上の関係を」
ここまで来ておいて、急にそんな事を言い出した叶子に、ジャックはあからさまにイラつきの表情を見せた。それもそのはず、最初の方は確かに戸惑っている様子ではあったけれど、何度も彼女の舌を絡め取っている内に叶子も自ら舌を差し出していた。
人を煽るだけ煽っておきながら、今更ビジネスパートナーとしての関係に徹すると言う何とも解せない理由に、少しの穴も決して見逃さない彼の悪い癖が出始めた。
「君は――、仕事上の関係‟だけ”の人の自宅まで、簡単に行ったりするんだ?」
「そんな事しなっ……」
落ち着いて叶子の話を聞いてみると、言っている言葉が矛盾している事に気付く。
彼女はきっと、自分の気持ちに気付いていない、若しくは進んでは行けないのだと必死で自分を制御しているのだろう。
ジャックはそっと叶子の手を取ると、両手で包み込んで自身の口元へと持っていった。
「カナ。僕は男なんだ。愛する人が目の前に居て、それが二人きりだったのなら尚更、抱きしめたくなるのが普通なんだよ。何もするなと言われれば何もしない。――けど……」
「……」
「それじゃあまるで蛇の生殺しだよ」
彼の辛そうな顔を見ていると、一体どうしたらいいのかと叶子も苦しくなってきた。このまま流された方が楽なのかもしれない。でも、あの日の出来事がいつまでも消化されずに頭の中を支配し続けるのが目に見えていて、一歩を踏み出せなくなっている。
抱かれる度に、愛を囁かれる度に繰り返される嫌悪に耐え切れる自信が無い。
「あの、でも」
歯切れの悪い叶子に今度はジャックの方が耐え切れなくなってしまったのか、叶子の気持ちを開放するつもりが自身の欲望を満たしたい感情が競り勝ち、一気に畳み掛けてきた。
「君は」
「え?」
「君はどういうつもりで僕の家に来たんだい? 廊下を歩いている時はどういうつもりで僕の手を握ってきたの? 何の意味もないなんて、そんな言い訳は通じないよ」
「言い訳だなんて、そん、……っ!」
先程までとは違い、少し乱暴に押し倒された。叶子の両手首をベッドに縫い付けると、ひどく悲しげな表情で自分を見下ろしている彼が居た。
「君が始めたんだ。そう、……君が始めた事なんだよ? 男の家にホイホイと簡単について来る事が一体どういう事か、僕がわからせてあげるよ」
「っ!」
そう言った彼の表情を見て、背中にツッと冷たい物が走るのを感じた。いつも優しい彼が一変し目の前にいる彼がとても冷血に見える。彼の顔が再び至近距離まで近づいた時、先ほどまでは受け入れていたキスだったが、彼の豹変ぶりに怯えた叶子は反射的に彼の口づけから逃れようとした。
「や、やめっ……」
「仕事上の関係のままでいたいんだよね? ……だとしたら、ビジネスはギブ&テイクで成り立つって事位知ってるよね?」
「っ!」
「僕は君に沢山与えた。豪華な食事はもとより君の会社にとっては大きな仕事もね。勿論、それらは僕がやりたくて与えたモノだし、見返りを求めるつもりも無かった。でも、君に対する僕の気持ちは君も気付いていたよね? それなのに、こうしてのこのこと家まで来てしまうなんて、オッケーって言ってるもんだと受け取るのが普通じゃない?」
「それは――」
叶子は返す言葉が無かった。そんな風に捉えられても仕方が無い事をしているのだと自分でもわかっているからだ。
「本当は優しくしたかったけど……。君が僕の事を恋人でも友人でも無く、ビジネスパートナー以上に見る事が出来ないって言うのであればまた話は別だね。さて、一体、君は僕にどんな利益を与えてくれるんだ?」
「そ、そんな、の」
トーンが全く変わらない声と冷たい言葉の数々とは裏腹に、少し苦しそうに顔を歪めている彼の表情が何処か引っ掛かる。きっと彼はそんな事を言いたいわけでは無いのだろうと、心の何処かでまだ彼の事を信じている自分が居た。