第39話~二度目の恋~
彼と一緒に行く店は何処もお洒落な高級レストランではあったが、今日は一段と高そうな雰囲気のある店だった。薄暗い店内は、食事と会話を楽しむゲストの邪魔にならない程度にピアノが旋律を奏でている。各テーブルには白いテーブルクロスの上に真っ赤なクロスが敷かれ、その中央にキャンドルと一輪挿しがセットされていた。
(きっと、ここも物凄く高いんだろうなぁ)
彼との打ち合わせが入り、慌てて銀行に行って正解だった。いつも彼が出してくれるけど、こうも毎回出してもらうのは気が引ける。二人は友人でも恋人でもなく、“ただの仕事上の付き合い”でしかないのだから。
頭の中でそう思っておきながらも、叶子は何故か胸が苦しくなった。
『君の事を一時も忘れた事は無いよ』
以前、彼に言われた言葉が混乱を招き寄せる。
あんな事言われなければ、あんな風にそっと優しく抱き締められなければ。過去の事などこの際綺麗さっぱり割り切ってこのビジネスに集中出来るはずなのに。と、彼の取った行動を心の中で非難した。
表面上ではビジネスパートナーとしての付き合いを望んでいるが、きっと本心では彼ともっと近づきたいと思う気持ちがあるのは薄々感じている。でも、その想いを表面化させるのは、自分が辛い想いをして必死で乗り越えてきた事を全否定する事になるだろう。
彼と自分では立場が違いすぎるという現実を見る事で、彼への想いを踏みとどめようと必死だった。
いつもの事ながら驚くのは、どのお店に行っても彼は顔馴染みという事。勿論この高級レストランでもそれは変わる事無く入り口に立っているスタッフが彼を見つけた途端、名前を聞かずとも席へと案内してくれた。
「こんばんは。お待ちしておりました」
「やあ、こんばんは」
「お二人様……、でよろしいでしょうか?」
彼が頭を横に軽く振ると、親指を含めて指を三本出した。
予約の段階では三名と聞いていたのだろうか、ジャックと叶子しかいない事に不思議に思ったスタッフが改めて確認した様だった。
今回もどうやらビルも一緒と言う事だろう。前回と違い今日は何故だかほんの少しがっくりしている自分がいた。
店のスタッフが彼の椅子を引いたが、ジャックは対面の椅子の横に立った叶子へと手のひらを向ける。
「失礼しました」
すぐに叶子の後ろにスタッフが回りこむと、にこやかな笑顔を浮かべながら椅子を引いてくれた。申し訳ないと思いつつ、流石レディーファーストの国の人だなと改めて感心した。
用意されているテーブルセットは三人分。とりあえず、ワインをオーダーするがビルが中々来ないので先に二人で食事を始める事になった。
「さて、パパッと終わらせちゃおうか」
「え? 何をですか?」
「仕事の話だよ。――あ、有難う。うん、これでいいよ」
運ばれてきたワインのテイスティングをしながら、ジャックはにっこりと微笑んだ。
ゆらゆらとかすかに揺れるキャンドル越しに、ワインを口に含んでいる彼が見える。仕事の話をしているせいか、アルコールを摂取していても表情一つ変えずにこちらに要望を伝える。その一言一句たりとも聞き逃さぬように、必死でメモを取っていた。
しばらくして、前菜を持ったスタッフが横に立つ。邪魔にならないように手帳をテーブルの端に寄せると、ジャックの話の続きを聞こうと再び顔を彼に向けた。
「よし、じゃあ仕事は終わり!」
「え?」
仕事の話を始めて五分と経っていないのに「ほら、早くそれ仕舞いなよ」と、叶子が手にしている手帳をちょんちょんと指差した。
(え? たったこれだけの話をするだけの為に、こんな高級レストランに来たの? これくらいだったら電話で済むのに)
と思いつつも、いやきっと食後も話を続けるはずだと考えを改め直す。いつ、どのタイミングでジャックが話し始めたとしても直ぐに対応出来るようにと、開けているページにペンを挟んだまま、一旦手帳をバッグの中に仕舞い込んだ。
◇◆◇
デザートが運ばれてきて、食事が一通り終わった事に気付く。手首の時計に目をやると、叶子は首を傾げた。
「ビルさん、どうしたんですかね?」
「うーん、多分だけど気を利かせてくれたんじゃないかな?」
「??」
キャンドルの向こうの彼は、いつの間に酔ってしまったのか少し頬が赤く、心なしか落ち着きのない様子だった。
彼の言った言葉の意味を考えながらふと辺りを見渡して見ると、客席にいる人たちは皆、明らかに恋人同士だと言う事に気付いた。
(そうだった、今日はバレンタインデーだった)
隣のテーブルではチョコレートらしきものを渡しているのか、ピンクのリボンで飾られた小さな箱がテーブルの上に置いてあり、テーブルを挟んで恋人同士が仲良く手を握り合っている。
(例え義理でも、チョコレートを用意すべきだったのかも)
と、自分の気の回らなさに辟易した。
「――あの、ここの支払いは私にさせてもらえませんか?」
せめて支払いだけでも。と、言ったものの、あまりにハイクラスなこの店の雰囲気に、果たしてお金が足りるだろううかと内心ドキドキしていた。
叶子の提案に彼は心底驚いた様な顔をする。その直後首を横に振った。
「女性にお金を使わせる事は出来ないよ」
「あ、えっと私にというか、会社に、というか……」
こんな高級レストランで接待。しかも、たった五分で終わった打ち合わせに、あの会社が何も言わず接待費として計上してくれるとは到底思えない。勿論、叶子も接待費として申請するつもりはさらさら無く、今まで沢山ご馳走になったのだから身銭を切ればいいと思っていた。
拒否される事を想定していて、会社持ちなのだと言えば彼も納得すると思っていたが、どうやらジャックの方が一枚も二枚も上手だった。
「例え会社持ちであっても、女性がお会計をしている姿を見る趣味はあいにく持ち合わせていないんだ」
テーブルに肘を付き、手を組みながらそう言ってニッコリと微笑んでいる。今回はどうしても自分で払いたかった叶子は、一体どう言えばジャックを納得させることが出来るだろうか、と困り果てていた。
ジャックと同じく譲る気など全くない叶子の様子に、それなら、と、ジャックが一つ提案をする。
「どうしても、って言うんなら」
「はい?」
「次、もう一軒付き合ってよ。今からは仕事抜きでね」
ウィンクをしながら悪戯っぽく笑った。
今でも十分仕事だとは思えないと言うのに、ジャックはあくまでもこれは仕事なんだと強調している。そして、今からは仕事だと言う事を忘れろと言う。
恐らく、その先には甘い誘惑が手薬煉引いて待っているのだろう。でも、もしかすると、昼間強引にされた健人のキスも、過去に彼から受けた酷い仕打ちも全てひっくるめて忘れさせてくれるかも知れない。
胸の奥でドクンッと大きな音を立てたのがわかる。早く表に出たくてガタガタと蓋を揺らしていた彼女の本当の気持ちが、主を無視して零れだして来た。
「――は、い」
結局、人って言うのは悲しい気持ちを引きずるのはほんのわずかの期間だけで、時が経つと共に楽しかった時の感情ばかりが頭に残ってしまうものだ。
あんなに突っ張っていた自分が恥ずかしいと思いつつも、これ以上突っぱね続ける自信がもう叶子には無く、自分の感情の赴くままにこの身を委ねようと心に決めた瞬間だった。
叶子の返事を聞いた途端、彼の表情がぱっと明るくなる。
ジャックはすぐに手を上げてウェイターを呼びテーブルチェックを素早く済ませると、おもむろにテーブルの上に置いていた叶子の手を取りそのまますぐに店を飛び出した。
店を出てからもその手は繋がれたまま。
繋がれた手を振り解こうと思えばきっと簡単に出きるはずなのに、もう既に叶子の心の中にはその選択肢はなかった。
彼に触れていたい感情が沸々と沸いて来るのを自分でも感じていた。
「……」
いつしか一方的に握られた手を、自然と握り返している。
叶子は再びジャックに恋をし始めている様だった。