第37話~年下の男~
両手一杯に書類を抱えながら廊下を歩くと、すれ違う男性は皆何故かいい香りがする。中には微笑みかけてきたり、いつもは話したことも無い人まで笑顔で挨拶をしてくれる。
普段と違った社内の様子に首をひねりつつも、叶子はエレベーターホールの前で立ち止まった。
ポンッとエレベーターが到着した軽い音が聞こえ、ゆっくりとその扉が開く。途端、そこからも色んな香りが入り混じった匂いが流れ出てきて、今からこの中に閉じ込められるのかと思うと思わず背筋がぞっとする。しかし、意外にもこの階で降りる人が多かったのか沢山の人がぞろぞろと出てきて、そんな叶子の不安は杞憂に終わった。
「あれ? カナちゃんじゃん」
どうやらその中に健人が混じっていた様で、中から叶子を呼ぶ声が聞こえた。健人は同じビルに入っている他社の女性を捕まえて、エレベーターの中でお喋りを愉しんでいた様子だった。
(相変わらず軽い男)
「じゃあね、ケント君。またぁ」
「あ、うん。またー」
鼻にかかった声で女性はそういうと、叶子に会釈しながら軽く微笑んだ。すれ違い様にふんわりと女性らしい香りが漂い、毛先をくるくると巻いたエレガントな雰囲気の綺麗な女性。叶子も釣られて愛想笑いを浮かべ、軽く会釈してからエレベーターの中に乗り込んだ。
健人以外は全員先程の階で降りてしまったのか、二人っきりという嫌な状況になってしまった。相手をするのが煩わしいと感じた叶子は、彼に背を向けるようにして扉の近くに立った。
「カナちゃん、荷物持とうか?」
健人が背後に近づくのがわかる。
「え? 別にいいよ。……てか何? この匂い」
顔だけ後ろに向けて、鼻をクンとさせた。
「いい匂いでしょ?」
「つけ過ぎじゃない? いい匂いを通り越して臭いよ?」
「えー? そう?」
健人は、ジャケットの身ごろを捲り、鼻を近づけたり袖口を嗅いだりした。
「なんだか今日は皆やけに香水つけてる気がする」
疑問に思うことを口にだした叶子は、きょとんとした顔で自分を見つめる健人の視線に気付いた。
「え? なに?」
「だって今日は特別な日じゃん」
「え?」
頭の中でしばらく考え、今日は世間一般で言う“バレンタインデー”なのだと、今やっと気付いた様子だった。
「ああー、そういうこと。――?」
横に立った健人が叶子に向かって両手を差し出している。筋張った手を辿りながら見上げると、彼はニコニコと嬉しそうな顔をしていた。
「いや、あるわけないし。いい年してまだそんなの欲しいの?」
「えー? ないのー? いい年って俺まだ二十五なんだけど」
「青いねぇ」
「はぁ!?」
自分よりも八歳も年下だと、こうも“男”というものを感じないものなのか。色気も無ければ、相手を愉しませるような粋な話術や気遣いにも欠けている。ジャックからは教わる事がまだまだ沢山あるが、健人に至っては逆に叶子が色々と教えてあげないといけない位だとさえ思えた。
(……って、なんでここで彼が)
自分では気付かないうちに、また彼と比べてしまっていた。
「?」
健人のトワレがさらに鼻についたと思った時、彼女に黒い影がかかった。
「チョコないんだったら、……カナちゃんでいいよ」
健人の声がすぐ側に聞こえ、ビクッと肩を竦めた。振り向けば両手が塞がってるのをいい事に、遠慮無しに健人の顔が近づいて来る。
「なっ、……に?」
慌てて健人を避けたがいつしか隅に追いやられ、逃げ場を塞ぐように叶子の周りを両手で囲った。
叶子もそれほど背は低くないにしろ、百八十センチは優に超える長身の健人にそうされると、すっぽりと上からも蓋をされた様な気分になる。ほんの少し感じる“危険性”を抱きつつも、普段の健人の事を思うと『単なる冗談だったのに』と、後で嘲笑われるような気がして強く逃げる事が出来ない。しかも、二人っきりだとは言えここは職場であって、健人より八歳も年上の彼女に妙な事をするわけがないと思った叶子は後者を選択し、その場に立ち尽くしながら健人を睨み付けた。
「ち、ちょっと何なのよ」
「その顔いいね、……ソソられるわ」
頬にツッと筋張った指が滑り落ち、そのまま髪を梳く様にして右手を彼女の髪に差し込んだ。そのまま頭を押さえられ、更に距離を狭めてくると条件反射で顔を背ける。拒絶の態度を見せたことが健人に火を点けてしまったのか、もう一方の手も加わり彼女の顔をがっしりと固定した。
「な、に――?? ……ぅ、んっ!」
抵抗の声も一気に飲み込むようにして、叶子の唇をあっさりと奪った。
何度も頭を左右に振り健人の生暖かい唇の感触から逃げようとする。だが、顔を固定された手が更に頬に食い込むだけで、決して逃がしてはくれない。
手にした書類を手放し両手を使って抵抗すればいいものの、咄嗟の事で動揺したのか変に力が入り、逆に離さない様に書類をぎゅっと握り締めてしまっていた。
「む、ぅ、……やっ、――っ!?」
勝手に唇を割って健人の舌が中に入ってこようとする。歯列をなぞり執拗に叶子攻め立てた。叶子がまた声でも出そうもんなら、きっとその瞬間を狙って彼女の舌を引きずり出そうとするだろう。
もうこれ以上の屈辱は耐えられない。思いっきり体全体を使って健人を押し退け、叶子はやっとこの羞恥から逃れることが出来た。少し上がった息を整えながら、乱れた髪の隙間から健人を睨みつける。
「っの、バカ! 何すんのよっ!!」
健人は手の甲で口を拭いながら挑発的な目で叶子を見た。してやったりな表情で叶子を見下ろす健人に背筋が凍る。
「……そんなにあのおっさんの方がいいのかよ」
「かっ、彼は関係ないでしょ!」
エレベーターに乗っている時間がこんなに長く感じられるのは初めてだった。
男を感じなくても力は紛れも無く男の力。次また襲ってくると、今度は逃げる事が出来ないかもしれない。叶子は強気な態度でいたが内心は心底ビクビクしていた。
“男”と認めていない八歳も年下の健人に、叶子は初めて怯えていたのだった。
ガクンと僅かな揺れを感じた事で、エレベーターが停止したのがわかる。ゆっくりと開き始めた扉をこじ開けるようにして慌てて外へ飛び出した。
「少なくとも、彼は……こんな馬鹿な事しない」
まだ、中で立ち尽くしている健人に振り返ってそう言うと、急いでその場を去って近くの化粧室へ飛び込んだ。
洗面台に荷物を置いて両手をつく。頭を上げると鏡に映る自分の顔は、今朝綺麗に引いたラインが乱れ酷い顔になっていた。
「……うっ、」
唇にまだ残る健人の感触。何度ティッシュで唇を擦っても、その感触が消える事は無かった。
ティッシュを持つ手が小刻みに震え、自然と涙が滲んで来る。鏡に映るその顔は、怒りと悔しさで満ち溢れていた。