第34話~駆け引き~
「もう君は顔に似合わず本当に強情だなぁー」
「はい、もう決めましたから。何度言われても無理なものは無理ですよ」
「何でそんなにイヤなの?」
「嫌って言うか……無理なんです」
「もう、それじゃあ話になんないよ」
ボスは首を縦に振らない部下を説得する為に叶子をランチに誘った。もちろんボスの驕りで、だ。クライアントのみならず、自分の社員にまで媚を売らなければならなくなるとは思ってもみなかっただろう。やっと大きな仕事が舞い込んできたというのに、当の本人がやりたくないと駄々をこねだすなど、長い人生の中でもそんな事一度も無かったのか、どうすれば機嫌を直してくれるのかとんと検討もつかない様子だった。
せめて降りたい理由を言ってくれれば少しは対処出来るものの、「無理です」の一点張りでは埒が明かない。どうにかならんものかと、ボスは腕を組むと大きくうな垂れた。
オフィスビルのロビーから出たところで、何気なくこの間彼が居た場所を振り返る。そこに彼の姿は当然無く、ほっとしたと共に自然と探してしまう自分に嫌気が差した。一度、ああいうことをされると、まあ次があるんじゃないかと気になってしょうがない。決して、何かを期待しているというのではなく、何を仕掛けてくるかわからない相手にどうやって接すればいいのかと、叶子は不安で気が休まらないのだった。
「あっ、これはこれは社長! こんな所でどうされたんですか?」
ボスの接待用の声が聞こえたと同時に、視線を前へ戻す。叶子の不安は的中し、ジャックが突然目の前に現れたのだった。まるで監視されているのではないかと疑ってしまう程に、そのタイミングは驚くほどピッタリだった。
「やぁ、こんにちは。ちょっとこの間の打ち合わせで聞きそびれた事がありましてね。その……ご迷惑でなければ、ランチをご一緒しながらでもと」
「いえいえ! 迷惑だなんてとんでも――」
「ああ! あなたじゃなくて」
ジャックが両手で指し示したのは、ボスの後ろに隠れるようにして立っている叶子の方だった。
ボスは一瞬拍子抜けしたものの、これはいい助け舟がやってきたのだと悟り、叶子を説得できるチャンスとばかりに一気にはやし立てた。
「あ! はい! どうぞどうぞ! ほら! カナちゃん行っておいで! ……わかってるね? 降りたいなんて事、絶対言っちゃダメだよ」
ジャックには聞かれないように叶子に耳打ちすると、彼のほうへトンと背中を押した。つんのめった叶子はしかめっ面で振り返り小さく首を振るが、ボスはそんな叶子の顔を見てもそ知らぬ振りで、ジャックにペコペコと頭を下げながらその場を去った。
「さて」
パンと手を叩くと腕を組み、親指を路肩に止めた車に向けた。
「とりあえず乗って」
「……」
ジャックは車に向かって歩き出すが、叶子は微動だにせず立ち止まっている。しばらく様子を伺っていたが一向に動こうとしない叶子にしびれを切らし、ジャックは彼女の元へと戻るとぶらんと力なく垂れ下がった手を握り強引に連れて行こうとした。
「ち、ちょっと」
繋がれた手はやはり暖かい。
彼の大きくてしなやかな手は、一生忘れる事の出来ない感触だ。振りほどこうと思えば出来る筈なのに、叶子は少しの抵抗を見せただけで彼の思うがままに従ってしまう。
まるで魔法にかかってしまったみたいに、気が付けば彼の車の横に立っていた。
ジャックにより後部座席の扉が開かれる。すぐに背中に軽く手を添えられ、叶子は仕方なくその車へと乗り込んだ。もうこうなったら、依頼者本人に仕事を降りる事を伝えるしかないと意気込み、深く息を吸った。
「あの!」
「やあ、どうも。久しぶりだね」
「あ、こんにちは」
運転席から声が聞こえ、見知った顔を見て思わずホッとした。その表情を見逃さなかったのか、
「なに? 今ほっとしてなかった?」
ジャックは片眉を上げて、不満そうな態度を見せた。それもそのはず、叶子と再会してからというもの、自分の顔を見る度顔を歪める彼女しか見ていない。納得がいかないのも無理はなかった。
自分がした事を棚に上げ、そんな不満そうな態度を見せるなんて。またもや叶子の眉根が寄せられた。
「ジャックは信用ないからね」
「酷いなー! ビルまでそんな事言うなんて」
途端、運転手のビルはそう言ってバッサリと切り捨てた。自分が言いたい事を代弁してくれるビルが居てくれて本当に良かったと心から思った。
車内は笑い声で溢れ、和やかなムードが漂っている。そのムードに流されまいと叶子は必死になり、膝の上で重ねた手をぐっと握り締めていた。
「あはは……。もう、ほんと酷いなぁ。ねぇ?」
「あ、貴方はやっぱり卑怯です。仕事を餌に自分の思い通りにさせるなんて」
叶子の放ったその一言で、穏やかな車内を一瞬にして凍りつかせる。
「私、この仕事降りるんです。だからもう構わないで下さい」
ビルがルームミラー越しにジャックを見ると、ビルと視線を合わせたジャックは両手を上げて頭を振った。さも、予想通りだと言わんばかりに彼は小さく息を吐くと、隣で肩を震わせている叶子に視線を向けた。
「そう来ると思ってたよ。でもそうはさせない。これは個人的な感情で言ってるんじゃない。本当に君が、君の感性が必要なんだ。――これだけはわかって欲しい」
真剣な表情で叶子に訴えかけるようにそう言うと、多くを語れば語るほど自分への信用が無くなると思ったのか、その口を硬く閉ざす。
「……」
作戦が功を奏したのか、もしかしたら自分の思い込み過ぎなのかも知れない、と叶子は思い始めていた。