第32話~混乱する感情~
「な、何言ってんの!? どっかで頭でも打った!?」
社に戻ってからも終業間際までボスの説得が続く。しかし、何を言われようと叶子の首はずっと横に振ったままだった。
「すみませんが、お先に失礼します」
「あ、ちょっと! カナちゃん! まだ話終わってないよ!」
終業時刻になると、今日一日散々だった叶子はボスから逃げるようにオフィスを出た。
周りの社員達の視線が痛い。皆、何故この仕事を降りたがっているのか理解出来ないといった顔をしていて、中には“天狗になっている”と陰口を叩くものもいた。しかし、周りに何と言われようとこの仕事をやるワケにはいかないのだと、叶子は半ばムキになっているようだった。
エレベーターで一階まで降り、出口に向かっている叶子を呼び止める声が聞こえる。
「カナちゃん! 待って待って!」
その声を聞いただけで後輩の健人だとわかる。面倒を増やしたくないと思った叶子は、振り返ることもなければ足を止める事もしなかった。そんな彼女を制止させるため、健人はわざと前に立ち塞がる様に立ち強制的に行く手を阻んだ。
「待ってって! ねぇメシ行かない? カナちゃんのおごりで」
「何で私のおごりであんたとメシ……、ご飯食べなきゃなんないのよ」
「プッ」
「!?」
健人と話をするといつもペースが乱される。不思議と嫌な気持ちの時に限って話しかけて来るから余計に腹が立つ。一言二言言葉を交わすだけでイライラした感情が健人に向けられ、いつの間にか何に対してもやもやしていたのかすら忘れてしまう。
(――もしかして、元気付けようとしてるとか?)
そんな事が一瞬頭に浮かんだが、そんなわけがないとすぐに頭を振った。
「じゃあわかった! こうしよう! 俺がメシおごるからカナちゃん飲み代出してよ!」
「ザルなあんたとそんな約束したら、たまったもんじゃない」
「いいじゃん、いいじゃ~ん」
「……大体あんたね。私はあんたの先輩なのよ? 何? その口の利き方は」
「もう会社から出たから、先輩もクソもなくない?」
そう言って調子に乗った健人は叶子の肩に手を回した。その手を振り解こうとした時、自分を見つめる一つの視線に気が付いた。
「っ、」
ビルの前でジャックが車にもたれながらこっちを見ている。まるで、足が凍りついて地面に張り付いたかの様に叶子の足も止まった。
突然、彼女が歩くのを止めたせいで健人はけつまづき、何事かと叶子の顔を見た。一点に注がれている彼女の視線に気付き、それを追うと視線の先に一人の男性を見つけた。
「……」
少しウェーブがかかった長めの髪をゆるく一つに束ね、前髪をルーズにおろした中性的な男性。長い手足に細身の黒のスーツが良く映える。見るからに高級そうな車にもたれながら、その男性は少し哀しそうな表情で叶子を見つめていた。
以前、彼女が顔をくちゃくちゃにして泣いていた理由に、きっとこの男が絡んでいるのであろうと言う事は二人の様子を見ればおのずとわかる。
「カナちゃん、行こうぜ。俺いい店知ってんだ」
「あ、……う、ん」
この場からすぐに逃げ出したくて、あんなに嫌がっていたはずの健人の腕に抱かれたままジャックと視線を切った。
彼の視線が背中に突き刺さるのがわかってはいたが、後ろ髪を引かれる思いでその場から立ち去ろうとした。
「カナ!」
「っ、」
初めて名前を呼ばれた事で叶子の足が思わず止まる。ゆっくりと振り返ると彼は車にもたれていた身体をを起こし、眉を顰めながらすがるような目で彼女を見つめていた。
「お願いだ、僕から目を背けないで」
一体、叶子がどんな思いで忘れようとしていたのかを彼はわからないのか、都合のいい事を懲りずに言い始めるジャックに、再び怒りが沸いて来る。
「あ――」
「あのさぁ」
声を発しようとする叶子に、健人が声を被せた。
「邪魔しないでくれる? おじさん。彼女だって嫌がってるじゃん、ねぇ?」
「……もう、放っといて」
一言そういい残し、叶子はジャックに背を向けまた歩き出した。
「カナ……」
手を伸ばしてみても、ここまではっきりと拒絶されては追いかける事もそれ以上声を掛ける事も出来ないでいた。
「だってさ、残念だったね。もっと年相応の女探した方が身の為だよ? お・じ・さん」
両手をポケットに突っ込み、少し体を折り曲げてのぞきこむようにしながらそう言うと、すぐに叶子の後を追いかけた。健人が近づいてくる足音が聞こえたのか、叶子はくるりと振り返ると。
「あんたもよ!」
と、健人に向かって指をさしながらキツク言い放つと、再び前を向いて一人で歩き出した。
バツの悪そうな顔をした健人はゆっくりとジャックの方を振り返る。
「二人とも振られちゃったね」
ジャックは肩をすくめ両手を広げた。
◇◆◇
(何なの? 二人とも人を馬鹿にしちゃって! 健人も健人よ、彼に『おじさん』とか生意気な口ばっかり聞いて。彼を誰だと思ってるのよ)
頬を少し膨らませながら大きく足音を鳴らし、駅へとひたすら歩き出した。
久しぶりに彼に会い彼女の心は完全にかき乱された。『謝りたい』と言う彼を決して許してはいけない、彼の話を鵜呑みにしてはいけないと自分に言い聞かせているのに、お腹の底では何かくすぐったいような感覚が這いずり回る。
「だめ、……なのに」
ジャックと再び会い、一つ確かな事がわかった。それは彼の事をまだ想っていて、自分はまだその気持ちに気付かない“フリ”をしている。あれだけ傷ついたのだからそう簡単に流されてたまるか、と言う気持ちがあるからこそ素直になれないのだろう。
――これ以上傷付きたくない。
自己保身から来る、不器用な彼女なりの防御策だった。




