第31話~拒絶~
ほんの数える程しか共にした事のない食事の中で、彼女のオーダーしているものを彼は把握していた。そのさりげない心遣いが叶子にとっては余計に苦しいものとなる事を知らずに。
――もう、放って置いて欲しい。
そっちが忘れてくれと言ったというのに、何故優しくされるのかがさっぱりわからない。また、その気にさせておいて、前と同じ様にあっさり振るのだろうか。
彼が一体何を考えているのか、叶子には到底わかるはずもなかった。
◇◆◇
「では、今日はこの辺で」
どうしてもジャックから注がれる視線が気になり、叶子は心ここにあらずのままで打ち合わせが終わった。全員が一斉に席を立ち出口へと話しながら向かう中、叶子はテーブルに広げられた書類をまとめカップを片付けやすいように端に寄せていた。
ジャックはそんな彼女を微笑みながらドアの入り口で待っている。待たれているプレッシャーに思わず手が震え、カップがカチャカチャと音を立てた。
慌てて抱き抱えるように荷物を持ち、ジャックが立っているドアに近づく。自然と背中にジャックの手が添えられ、叶子を先にドアの外へと導いた。
社長だというのに一番最後に出た彼を誰も構いもせず、前方ではボスとジャック以外の社員達が熱く語りあっている。会議室を出た時は叶子の後ろに居たジャックも、あっという間に叶子を追い越し、両手をポケットに突っ込みながら叶子のすぐ前を歩き出した。追い抜きざまにジャックの甘い香りが鼻孔を刺激する。今となっては懐かしいその香りに、トクンと小さく胸が跳ねた。
打ち合わせ室が幾つも並ぶ廊下、黙って彼の後ろをついて歩く。使用していない部屋は暗く、ドアは開いた状態だった。
また彼と再会する事は愚か、彼の会社を二人で歩く日がやって来るとは思いもよらなかった。
今すぐにでも逃げ出したい気持ちを、グッと堪える。あと少し、あともう数分でここから離れられるのだと何度も自分に言い聞かせ、足元を見つめながら早足で歩いていた。
ジャックはと言うと、扉の開いている部屋を覗きこむや否やそのままその部屋の中へと消えていった。下を向いている叶子はその事に気付かず、そのままその部屋を通り過ぎようとした瞬間、それは突然起こった。
「? ――っ!」
ふと、叶子が顔を上げた時、目の前を歩いていたはずのジャックの姿が見えなくなっていた事に疑問を抱く間もなく、誰かに急に腕を掴まれ部屋の中へ引きずり込まれる。叶子を扉に押し付けながら部屋のドアが閉まり、それと同時に手で口を塞がれた。
扉が閉まった事で明かりの点いていない部屋はますます真っ暗になる。そして、ボスたちの話し声は徐々に遠ざかっていった。
「なんっ……!?」
「シーッ」
人差し指を口に置き、ジャックはボス達が自分達に気付かずに行ってしまうのを待っている様子だった。彼の思惑通り、どうやらボス達はすぐ後ろで起こった異変に全く気付いていないのか、彼らの話し声は全く聞こえなくなってしまった。
叶子が声をあげる素振りがないことがわかると、ジャックはゆっくりと叶子の口を塞いでいた手を離し、そっと、まるで壊れ物を扱うかの様に叶子を抱きしめた。
「逢いたかったよ」
「っ、」
その言葉を聞いて、また心臓が大きな音を立てる。
こんな事をして、一体どういうつもりなのだろう。振ったのは彼。無かった事にしてくれって言ったのは彼の方なのに。
当然、嬉しさよりも悔しさが込み上げて来て、叶子はジャックを思い切り拒んだ。
「や、やめてっ! ……下さい」
両手をジャックの胸元に置き、彼を押しのける。叶子を解放した彼の表情は、まるで捨て犬の様なとても悲しそうな目をしていた。
「そんな目で見ないで。……まるで私が悪い事したみたい」
「そんなつもりは」
「い、一体、何なんですかっ!? こんな事をして!」
「あの、少し君と話がしたくて」
「私はありません!」
外に出ようとドアノブに手を掛けた叶子を、ジャックが制する。
「待って! まさか君がこんな仕事をしていたなんて全然知らなくて、凄く……びっくりして」
「もし……私が最初から知っていたら、私はこの仕事を降りていたと思います」
叶子はジャックに背中を向けたまま、思っている事をはっきりと彼に告げた。
「その……色々謝りたいんだ、君に」
「……。――!」
頬に何かが触れた事で、ピクリと肩を竦める。ジャックの手の甲が叶子の頬をすっと撫でていた。
ゆっくりと後ろを振り返ると、哀しげな目で彼が微笑んでいる。
「少し、……痩せたね」
無神経極まりないその言葉にカッとなり、添えられた手を振り払ってジャックをキツク睨んだ。
「だっ、誰のせいだと思ってるのよ! ――謝りたいと思ってるなら、……少しでも私に悪いと思ってるなら、もう二度と私の前にあらわれないで!」
「カ――っ! ……」
零れ出そうな涙を堪えながらそう吐き捨てると、一気に扉を開きその部屋から飛び出した。一人残されたジャックは叶子にかける言葉が見つけられず、伸ばした手をぎゅっと強く握り締める事しか出来なかった。
◇◆◇
(信じられない! あんな事……)
ジャックから逃れる為に、無我夢中で廊下を突き進んだ。頭の中がパニック状態になっていて、自分でも何処へ行こうとしているのかすらわからない。次第に、どれだけ進んでも外へ辿り着かない事に気がつき、ハッと我に返った。
(ここ、何処だろう)
辺りをキョロキョロと見渡している叶子の前を、一人の女性が横切った。
「あの、すみません。エレベーターは……。あっ」
振り返ったその女性もまた、驚いた顔をしていた。
「貴方、……ここで何してるの?」
黒のスーツをパリッと着こなしたその女性は、ある意味二人を引き裂いたとも言える張本人、カレンだった。そう言えば、一緒に働いていると言っていたのを思い出し、なんてツイていない日なんだろうと肩を落とした。
「あの、仕事の打ち合わせで来たんです」
「何? そのバレバレな嘘。貴方まだジャックにちょっかいかけてるの?」
「ほ、本当です! 私もびっくりしたんですから!」
「彼に、……会ったの?」
上目遣いで小さく頷くと、カレンは更に驚いた表情をした。かと思うと、すぐに目つきが鋭く変化していく。
「ああ、そう。――貴方が勘違いしちゃうといけないからこの際はっきり言っておくわ。彼と私は“男と女”の関係なの。わかる? あなたが彼に会うずっと前からね」
「っ、」
初対面からやけに突っかかってくるなと薄々感付いてはいたが、いざ面と向かって言われると計り知れない絶望感に襲われてしまう。言葉を無くしている叶子を見て、カレンはとても満足した様子だった。
「ああ、エレベーターを探していたんだったわね。それなら反対側よ、じゃあね子猫ちゃん」
カレンは片手をヒラヒラとさせて、ヒールの音をコツコツと鳴らしながら去っていった。
「……」
叶子は自分が思っていた以上にショックを受けてしまっていた。皮肉にも、それによって自分がまだ彼を忘れていないのだということに気付かされてしまう。
エレベーターで下に向かう途中、脳裏に二人が抱き合っている姿が何度もちらつく。かき消してもかき消してもすぐに浮かんでくる。
(どうして私ばかりこんな辛い目に。私が何をしたの? たまたま同じCDに手を伸ばしてしまったのがいけない? 彼の冗談を真に受けて連絡しちゃったのがいけなかった?)
自分から彼に取り入った訳じゃない。今日だって仕事で来ただけなのに、なぜあんな事を言われなければいけないのか。
「……苦しい」
張り裂けそうな胸をぎゅっと掴み、唇を噛み締めた。
◇◆◇
「ああ、カナちゃんやっと来た! 何処行ってたの?」
「あ、すみません。ちょっとトイレに」
一階のエレベータホール前でウロウロと落ち着かない様子のボスが叶子を見つけると、ホッとした顔をした。そのまま一緒にロビーを出て客待ちしているタクシーに乗り込んだ。
会社へ戻るまでの間ボスは又熱く語り始める。ボーっとした頭でボスの話を聞いていると、どうやら叶子が知らない間に話が進んでおり、次回の打ち合わせ日が既に決まっていた。
(またこんな気持ちを味わうかもしれない……。もう、うんざり)
そう思った叶子は、もやもやしていた自分の気持ちを吹っ切るかのように、ボスが喋り続けているのを遮った。
「カナちゃんはピンと来ないかも知れないけど、これって物凄いビジネスチャンスなんだよね。だからさ――」
「あの」
「カナちゃんもそれ相応の責任を――、ん?」
「私この仕事降ります」
迷いは一切感じられないはっきりとした口調で、興奮冷めやらぬ状態のボスに向かってそう告げた。