第30話~緊張~
ジャックが部屋に入りボスが慌てて立ち上がる。名刺を出すのに手間取ってる間に彼は部屋の中を見渡し、俯いて座っている彼女に視線を移した。
叶子を視界に捕えた途端、ハッとした表情になり瞬きもせずに目を丸くしている。
――何故、彼女がここに?
言葉に出さずとも、何が言いたいかがジャックのその表情でわかった。
先ほどの四人よりも更に愛想良く、まるで水飲み鳥のオモチャのように頭をペコペコと上下しながらボスが名刺を差し出している。明らかに自分に注がれているジャックの視線を感じるものの叶子は顔を上げる事など出来ず、膝の上で組まれた手をぐっと握り締めていた。
ボスの名刺を受け取ると慌ててパタパタと自分の胸や腰を手で触り、ジャックは名刺を忘れた事を詫びている。ボスに小突かれ立ち上がった叶子は視線を上げる事無く、俯いたまま震える手で自分の名刺を差し出した。
「……野嶋と申します」
ドキンドキンと徐々に大きくなっていく胸の音。差し出した自分の名刺が小刻みに震えていて、早くこの名刺を受け取って欲しいと心の中で訴えた。自分の手が小刻みに震えていると感じれば感じるほど、その手の震えが増す。そんな叶子とは対照的に、薄っすらと笑みを浮かべている彼には余裕さえ感じさせられた。
やっとの事で叶子の名刺を片手で受け取ったジャックは、同時に右手を差し出した。
「初めまして」
「──っ」
その言葉の意味する所はきっと、彼が最後に言った言葉通り、無かった事にして、ということであろう。面識など一度も無いのだと周囲に、そして叶子に知らしめるようなそのたった一言に、叶子の顔が即座に歪んだ。
差し出された彼の手に震えた自分の手を重ねる。柔らかく温かい手に包まれた事が、嫌でも初めてあったあの日の事を叶子に思い出させた。
今までずっと頭の奥に封じ込めていた悲しい感情が溢れ出そうになる。喉に熱いものが込み上げてきて、吐き出したい気持ちを堪えるのに必死だった。
やっと気持ちが落ち着いてきたところだったのに、何故、神様はこんな悪さをするのだろう。こんなに人が沢山いる中で、何故わざわざ再び出会わなければならないのだろう。
気持ちの整理がつかないまま、何も無かったかのように中断していた打ち合わせが仕切りなおされた。
ジャックを中央に座らせるように社員達が席を移動する。自然とジャックは叶子の真正面に座る形となってしまった。
打ち合わせが再開されると彼はテーブルに肘をつき、口元を隠すように手を組みながらじっと彼女を見つめていた。
ふと、視線を落としたかと思うと急に席を立ち、ジャックが部屋の外へ出て行った。他の社員達は突然退席した社長を別段気に掛ける事も無く、いつもの事かのように話を続けていた。
すぐにジャックは戻って来たが、先ほどまでと変わらず同じ姿勢で無言のまま叶子に視線を注いでいる。意見を求められても、視線は叶子に向けたまま適当な返事をするだけだった。
しばらくして、ドアをノックする音とともに先ほどの女性が部屋の中へと入ってきた。
その女性は他には見向きもせず叶子の側まで来ると、出されていたコーヒーは下げられ、代わりに温かい紅茶とミルク、それとひざ掛けを彼女に手渡しニッコリと微笑んだ。
絞ったライム入りのペリエを手に取ったジャックは、突然の出来事にあっけに取られている叶子のその様子を見て満足気に微笑んでいた。