第28話~ぬくもり~
まだ、ここは会社だというのに誰も居ない事で気が緩んでしまったのか、つい感情的になりむせび泣いていた。一度出た涙は簡単には止まらないと自分が一番良く知っているからこそ、あの日から今までずっと泣くのを我慢してきたのに。
彼との距離が一気に縮まった、あの日の夜。
今の状況がその日に酷似していて、つい思い出してしまった。
――あの日も、月がとても綺麗だったのを、良く覚えている。
「――。……?」
と、その時。オフィスの扉が開く音が聞こえ、身体がビクッと小さく震えた。
ここのビルの警備員は二十三時頃に一度巡回に来たばかりだと言うのに、一体誰が入って来たというのか。ここ最近ほぼ毎日の様にこの位の時間まで残っていたが、こんな夜中に人が来る事は今まで一度も無かった。
声を上げて泣いていたのが嘘の様に、今はピタリと収まる。冷たい滴が背中を伝うように、じわじわと恐怖心が湧いてきた。
「あれ? カナちゃん、まだいたんスか?」
怯えていた人の気も知らず、呑気にオフィスに入ってきたのは後輩でWEBプランナーの林 健人だった。叶子より八歳も年下のくせに、彼女の事を周りの社員同様に「ちゃん」づけする生意気な男である。
とりあえず不審者では無かった事がわかると、すぐに健人から顔を背け手のひらの手首に近い部分で目元を拭った。
「う、うん、今帰るとこ」
健人に悟られないようにと努めて冷静に振舞いながら荷物を片付け始める。が、鼻声だけはどうにも隠しようが無い。健人そのことに気付いたのか、衣擦れの音が徐々に近づいて来た。
「へー……そうなんすか。俺、忘れ物しちゃって取りにきたんスよねー……」
「そうなんだ」
彼女の横に立ち止まり、百八十センチ以上ある長身の健人に見下ろされているのが、気配でわかる。叶子は長い髪で顔を隠し通そうと、決して健人の方に顔を向けることはしなかった。
「……女の人が一人でこんな時間に帰ると危ないですよ」
「そうだね、じゃあ急いで帰るわ」
「……」
――お先に。
そう言いながら、逃げるようにして健人の横を通り過ぎようとした。でも、ふいに腕を掴まれて健人の方に強引に顔を向けさせられてしまう。乱れた髪にびしょ濡れの顔。目も鼻も真っ赤になって、メイクもすっかり落ちている。
そんな叶子の顔を目撃した健人は、綺麗な切れ長の目をありえないほど丸くさせ、ギョッとした顔をしていた。
「な、何よ!」
こんな酷い顔を直視されるのが嫌で思わず顔を背けると、健人は何を思ったかプッと突然噴出しケタケタと笑い出した。
「!?」
「カナちゃん、ひっどい顔!」
一気に叶子の眉根に深い皺ができ、目がつりあがる。先程までの悲しい気持ちは全部吹っ飛んでしまった。
健人はいつもこんな調子で人をからかう。ノリも軽いし女性と本気で付き合った事が無いと言うことも、人伝いで聞いたことがある。
(最悪なヤツ。……彼とは正反対だ)
あれほど嫌な思いをさせられたと言うのに、気付いたら彼と比べてしまっている自分に心底驚いた。あんなに振り回され、揚句の果てには違う女性に走った彼を何故いい様に思ってしまうのかが自分でも良くわからなかった。
「う、うるいな。も、いいから離してよ」
腕を振り解こうとすると何故だか急に視界が暗くなった。
タバコ臭いシャツというだけでも不快だというのに、首につけているジャラジャラしたアクセサリーが顔に当たりそれが冷たくて少し痛みを感じる。
「な、何……っ」
声を発しようとすれば代わりに思い切りきつく抱きしめられ、話す所か息すら上手く出来なかった。遠のいたり戻ってきたりする意識の中、どうにかして健人の腕から逃れようと試みるが、完全に叶子の胸が健人の胸板にピッタリと貼り付けられている上にこうも力強く抱き締められたとあっては、非力な女の力ではどうする事も出来なかった。
健人の腕の力が少し弱まったと同時に、彼女の薄れ掛けていた意識も戻り始める。それを見計らって健人の腕から逃れようとしてもそれに気付いた健人に又きつく抱き締められて、結局彼の腕から逃れる術は何一つなかった。
「泣きたい時があるなら言ってよ。いつでも俺の胸を貸すからさ」
「――」
遠のく意識の中。「誰があんたなんかと!」と叫びたいのに、苦しくて文句を言う事も出来ない。
無言でいる事が、健人にあらぬ誤解を与えてしまうのでは無いかと思いながらも、人の温もりがとてもあたたかく感じ、ほんの少し叶子の気持ちが落ち着いた様な気がした。